思い出は、いつも鉄の味がする2

 やむにやまれず身を投じたドブ川は、ものすごいにおいと味の奔流でもあった。汚水は土管を抜け、街のはずれへとサーガを運んだ。サーガはなんとか息を吸い、州のような場所に打ち上げられた。たちまち気分が悪くなり嘔吐して、それがおさまると全身がにおって、また吐いた。立ち上がることができず、その場に倒れ込む。


――虎だのジャングルだのはどうしたんだよ、くそ、くそ、くそ。人生最後がこれか……。


「あんた、何してんの。だいじょうぶかい?」

 気が遠くなりかけたとき、小柄な老女が近づいた。サーガが認識できたのは、ボロ布をぐるぐるとターバンのように頭と、薄茶色の瞳。そこに敵意や害意はない。


――助かった……のか。


 のちにサーガが“ばっちゃん”と呼ぶことになるその老女は、スラムのはずれ、ゴミ捨て場の近くの小屋へとサーガを連れ帰った。汚れたからだを貴重な水で洗い、あったかいスープを食べさせてくれた。何があったかをだいたい聞いて休ませると、ばっちゃんは、二日後、どこからか持ってきた髪染めをサーガの頭に振りかけた。

「くさい!」

ぶちぶち文句を言うサーガに、「あんたの姿じゃ目立ちすぎる。色街のやつらに見つかっちまうよ。せめて髪だけでも黒くしな」と、ばっちゃんは諭した。


 かわいそうなずぶ濡れの子犬を拾ったら、ところがどっこい、狂犬だった。ばっちゃんはきっと、そう思ったに違いない。回復し、片言ながら当地の言葉を覚えたサーガは、たちまち近所の子どもたちともめごとを起こした。たしか最初は、「なんだお前、白くてヘンなの」と小石を投げた男の子を木の棒でぶったたこうとして、加勢した子どもたちと乱闘となった。

 最初こそ、「新参者なんだから、最初からケンカ腰でいかず、仲よくしな」と言い聞かせていたばっちゃんだが、途中であきらめた。スラムの子どもたちの一部は、どこか本能的にサーガを外から来た危険な敵だととらえていたし、サーガはそんな敵意に敏感に反応した。

 ある日、ばっちゃんはため息をつき、「力の使い方を覚えな」と拳闘を教えてくれた。

「左足を前に出して。右手であごをかばって、脇を締める。そう、構えて。左を打って、引くと同時に右」

「すげー! こうやると、勢いがぜんぶ乗る!」

一度見せただけで動きとことわりを飲み込んだサーガに、ばっちゃんは目を丸くした。

 毎日、ばっちゃんと練習するうち、ケンカのやり方が変わった。近所の悪ガキぐらいなら、動きがだいたい読めるようになったし、数少ない攻撃で、相手を無力化する方法もわかってきた。たとえば、あごのある一点。そこに拳をかすめると、ひとは頭がぐらぐらするらしく、簡単に動揺する。そういった知識はサーガに余裕をもたらし、いつしかサーガはスラムのガキ大将となった。

 しかし、そこで戦いの日々は終らなかった。こんどはもうすこし年上の、チンピラ予備軍に絡まれるようになり、その次はほんもののチンピラと事を構えた。


 ばっちゃんがどうして拳闘を知っていたのか、なぜモンスーンの国にいたのか、いまとなっては、わからない。日に焼けていたけれど、瞳は淡い茶色だったし、ターバンの下の白髪には、栗色の毛がまじっていた。西の国のことばも流暢だった。きっとあのひとも、わけありだったのだろう。


 肌に粘りつくような湿気、そしてべったりとした髪染めにうんざりし、スラムとゴミ捨て場の悪臭にまみれながら、サーガは思った。この世で生き抜くのは、なかなか厳しいらしい。

 三つ下のあいつはどうしているんだろう。あの地方貴族のおっさん、ミハイルがえらく気に入って、ぜひ養女にと言っていた妹。冒険に憧れ、近所のガキと騎士ごっこに興じたり、泥だらけになってでかいカエルに夢中になっていた自分と違って、フワフワとかわいらしかったあの娘。

 ミハイルは、エネルギーのかたまりのようなサーガを持て余していた。それでも、病の床に臥した母さんに、「上のお嬢さんも、もちろん養女に」と言ってのけた。

 しかし、当のサーガは、地方貴族の養女なんて退屈な生活は御免だった。だから、商人の話に乗ったのだ。それが大間違えだったわけだが――。ともかく、妹とはそのまま離れ離れだ。


――あの娘も、こんな苦労しているんだろうか。


 母さんに連れられて、西の国へ渡る前。まだヴォルヴァの家にいたころ、父さんから疎まれていた妹。最初はミハイルのおっさんのことも怖がっていたけれど、実の父から与えられなかった愛情を受けて、おずおずと甘えるようになっていた。だいじょうぶだと思いたかった。けれど――。

 少女の自分を買おうとした男。庇護者のいない子どもに向けられる悪意や差別。そんなものを経験するほど、「あの子はぜったいだいじょうぶ」とは思えなくなっていった。それと、むかし、ヴォルヴァの家で、ひょっとしてあの子は……。そこに至ると、サーガはいつも頭を振って考えを止めた。あまりにおぞましかったからだ。


――とにかく早く大きくなって、金つくったら、この国を出て、あの子を探しに行こう。

 

 そのためには、強くならなければ。こんなスラムのガキ大将で満足していてはいけない。そのへんの悪ガキもチンピラもぶん殴って負けないぐらい強くなれば、きっとみんな黙るはずだ。そうしたら、きっと、自由になれる。いつまでも、色街のやつらにおびえて生きるのも胸糞が悪い。この髪だって、黒く染めなくていいようになりたい。

 サーガはそう考えて、実際にそうした。“軍師”を自称するアレリアという男と組んでからは、負けなしになった。悪事を働くチンピラやらヤクザ者を狙って金を強奪するようになってからも、安全にねぐらを確保し、生き延びられたのも、この男のおかげだ。髪色にちなんで“白金プラチナの悪魔”なんて二つ名で呼ばれるようになったころ。貯めた金をはたいて西の国にわたり、妹がミハイルのおっさんの屋敷、もといロマノフスカヤ家から消えたことを知った。


――やっぱり。


 西の国で金を握らせておいた情報屋から電報を受け取ったのは、それから二年近くあとのこと。

《リュートック。チンピラの嫁がユメリアと名乗る》

何回か電報をやり取りした。そのチンピラは、庭師の真似事もしているという。そいつが、ロマノフスカヤで妹をさらった庭師かどうかまではわからない。けれど、きっとそういうことだ。

 サーガは即座に荷物をまとめた。その庭師だかなんだかをぶん殴り、妹を救う。男が四の五のいうなら、ぶっ殺す。上手くいったら、そいつが所属している組織のシマを荒らして金を巻き上げよう。そんで、どっか安全なところに妹を連れて行く。それで決まりだ。

「お前はどうする? これはわたしの個人的な問題だ。来ないんなら、てきとうに休めよ」

 アレリアに声をかけると、「行きますよ」とニコニコした。

「なんだかおもしろそうですし。あなたの妹さんってひとも、見てみたいですし。あ、でも、今回は口出すのはやめときます。バケーションですよ、バケーション」

 アレリアの目には、好奇の色がありありと浮かんでいる。

「勝手にしな。とりあえず、今日の夜、船で発つ。“運び屋”の船がちょうどこっちに来るらしい。八時に埠頭だ」

「急ですねえ」


 そんなわけで、いま、サーガはプラチナブロンドを海風になびかせている。すらりと伸びた背と手足、すうっと通った鼻筋に、切れ長の灰青色の瞳。狂犬のような内面とは対照的な、北国の湖のようなその姿。

 アレリアはサーガを横目で見ながら思った。


――さてさて。たぶん、その庭師とやらと妹さんの関係は、サーガさんが思っているのと違うのでしょうけれど。妹を前にして、このひとはんでしょうか。

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