「お互いのために、忘れなさい」
「あの人と関わるのはやめなさい」
庭師の小屋で寝支度をしているとき、師匠が言った。
小さな庭師小屋には、古い木のテーブルを挟んで、寝台がふたつ置かれている。
師匠は少年に背を向けるかっこうで、シーツを整えていた。
――隠しているつもりだったのに――。
いつ見られたのか。
とはいえ、少女との距離が近づくたび、舞い上がっていたのも事実だった。
「前にも言ったが、あの人は、アレク様のお手付きだ」
「でも、アレクはあの人のこと、大事にしてない……です」
少年は口ごもりながら反論した。
「様、をつけろ」
師匠が叱り飛ばす。
「いらない玩具でも、使用人に盗られたらいい気はしない」
「あの人はものじゃない!」
少年は反射的に言った。
師匠がため息をつき、少年のほうに向きなおった。
日焼けした肌、深いしわが刻まれた目元。
はしばみ色の双眸が、少年を静かに見つめていた。
「お前、あの人が大切か」
少年はうなずく。
「なら、なおさら関わるのはやめなさい。
お前ばかりか、あの人も危険にさらすことになる」
路上ではじめて彼女に出会ったとき、
アレクが「色目を使った」と彼女を責めていたことを思い出した。
それでも、少年にはピンとこない。
――嫉妬するぐらいなら、大事にすればいい。
彼女の心はあいつのもとにあるのに。
大事にして、ずっと離さないようにすればいいのに。
納得しないようすの少年に、師匠が告げた。
「お前には大切な人でも、アレク様にはとっては玩具だ。
使用人に盗られるくらいなら、自分で捨てたいと考える」
「そんな」
「それに、足蹴にされても、あの子はアレク様を慕っている」
少年の心が痛んだ。
「あんなことされて、なんで」
彼女の気持ちを直接聞いたあとでも、少年の胸には疑問が渦巻いていた。
納屋での行為を、彼女が喜んでいるようには見えない。
そのうえ、気に入らなければ躊躇なく頰を張るような男を、なぜ。
「ほかに、すがるものがないからだよ」
胸に、焼けつくような痛みが走る。
「俺がっ……」
「使用人に、何ができる?」
師匠が少年のことばをさえぎった。
「お前に、あの人を守れるか?」
たたみかけられ、少年は答えられない。
彼女をここから連れ出したい、と考えることはある。
しかし、それが甘い夢だともわかっている。
孤児で、この国ではめずらしい東洋人で、行き倒れるほどに頼れる先がなくて、
そのうえまだ半人前で。
そんな自分が、彼女を外の世界で守っていけるとは思えない。
少年はこぶしを握りしめる。
「この先、あのひとはどうなるんですか」
声が震えた。
「よくて嫁のきてがない男に嫁がされるか、
アレク様が奥様を娶ったあとは妾になるか」
見知らぬ男のとなりに、目を伏せて立っている彼女。
この屋敷の日陰に留め置かれ、泣いている彼女。
それが「よくて」。
悪くて、何が起こるのか。
少年がそれを聞きあぐねているうち、
「お互いのために、忘れなさい」
師匠はそう言って、ランプを消した。
――あの人を、忘れる。
少年は、少女がくれたりんごの甘さを覚えている。
――俺に人生を与えてくれた人。
この前、納屋で抱きよせたときに感じた、彼女のあたたかさ。
――忘れられるわけがない。
少年には、それだけははっきりとわかっていた。
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