俺はこの人のことを、知りたい。 知らなければ、守ることはできない
ゼラニウムを届けた日も、彼女の頬に赤みがあった。
少年の視線に気づくと、少女は
「たまたま、ぶつけてしまって」
と笑顔をつくった。
――そんなはず、ない。
少年は歯噛みする。
「庭師さん?」
少女の呼びかけで、我に返る。
少年は気持ちを切り換えようと、努めて明るく、後ろ手に隠していた花を差し出した。
「今日はゼラニウムです」
――せめて、少しは笑ってほしい。
ただ、彼女の反応はいつもと違っていた。
少女は深紅の花を一心に見つめていた。
やがて、彼女の瞳から涙がこぼれはじめる。
「だっ、大丈夫ですか」
「あ……」
彼女自身、頬にふれて、はじめて泣いていることに気づいたようだった。
そのとき、誰かが裏庭へやってくる気配がした。
「で、あのメイドがさあ」
――エリスか。
下男を束ねるエリスは、噂話が好きだ。
反射的に、少年は少女の手を取った。
はじめて触れたその柔らかさを喜ぶ心の余裕はない。
そのまま納屋まで走って身を隠す。
それは、この屋敷にはじめて来た日に、アレクと彼女がいた場所だ。
――気まずい。
とはいえ、ほかに選択肢はない。
小屋の外から、エリスの声が聞こえる。
少女をうながして、小屋の奥の奥、季節ごとに必要な道具がしまってあるスペースに腰を下ろす。
ここまでは、きっと誰も来ない。
彼女がいつの間にか、ゼラニウムの花を握りしめていた。
紅い花を握る手に、涙が絶え間なく落ちている。
何度か迷って、少年は思い切って、その頭に手を伸ばした。
「し、失礼します……」
――この人を落ち着かせるため、落ち着かせるため。
そう、言い聞かせる。
「変な風になっちゃって、ごめんなさい……」
すすり上げながら口を開いた彼女の声が、幼く感じられた。
「どうしました?」
「このお花、昔、アレク様がくれたことがあったの」
少年の胸が痛む。
彼女はぽつりぽつりと語った。
小さいころ、母親が亡くなり、姉とは別々の人に引き取られたこと。
少女を引き取ったのが、この屋敷の先代の主・ミハイルだった。
先代は、孤児でかわいそうだと話し、実子と変わらず面倒を見るよう話したけれど、屋敷の誰もそれを信じなかった。
妾の連れ子を、“お優しい”先代が連れてきたのだと遠巻きにされた。
そんなとき、唯一声をかけ、遊んでくれたのがアレクだった。
「アレク様が遊んでくれて、わたし、とてもうれしかった」
しゃくりあげながら彼女は言った。
そのころに、と彼女はつづけた。
「そのとき、大きくなったら結婚しようって、アレク様がこのお花をくれたの」
胸がズキズキする。
どうして、彼女が「アレク様」と発音すると、こんな気持ちになるんだろう。
「本当にうれしくて。わたし、いらない子じゃないんだって思えた」
このお花を見て、そのときのことを思い出した――。
少年は、彼女の髪を、ただ、なでた。
ふっといい香りがする。
りんごを差し出してくれたときに感じたのと、同じ香り。
先代が亡くなると、彼女を守る者は誰もいなくなった。
メイドにしようという話もあったけれど、
「妾の連れ子をメイドにしたのではあまりにも外聞が悪い」と立ち消え、
屋敷の表側に行くことは禁じられた。
「母様は、お妾さんなんかじゃなかったのに」
少女が悔しそうに言う。
そして、先代につづいて奥様が亡くなると、アレクからは「求められる」ようになった。
少年は唇をかみしめる。
聞きたくない。
でも。
聞かなければいけない。
俺はこの人のことを、知りたい、知らなければいけない。
知らなければ、守ることはできない。
「それでもよかった。
わたし、本当にアレク様のお嫁さんになれると思ってた。
だから、うれしかった」
彼女が嗚咽し、震えている。
「でも、そうじゃなかった。そう思っているのはわたしだけ。
立場をわきまえろって」
エリスの声が近づく。少女の嗚咽は抑えようがない。
少年は少女を抱き寄せ、その頭を自分の胸につけた。
エリスの声が遠のくまで、そのまま彼女の髪を撫でる。
胸もとに、彼女の呼気を感じる。
――俺はこの人に、こんなことしかしてやれない……。
虫けらのように路上で死にかけていたときとも違う無力感にさいなまれる。
エリスの気配が去り、少女の嗚咽がおさまったあと、少年はためらいながらも尋ねた。
「それでも、アレク様のこと……その……好き……なんですか?」
少年の腕のなかで、少女がうなずいた。
「アレク様に、わたしのこと、昔みたいに見てほしい」
ゼラニウムを見ながら、ぽつりとつぶやく。
――そんな日は来ない。来るわけがない。
少年は直感的に思った。
しかし、それが偽らざる彼女の望みなのだ。
彼女の心はアレクのところにある。
言いようのない苦さを、少年は味わった。
小屋から出ると、日が暮れかけていた。
「変な話をしてごめんなさい」
初夏の夕暮れの風が冷たく、気持ちよかった。
変な風になってしまったけれど、と彼女は言った。
「このお花がゼラニウムって名前だってわかって、よかった」
一瞬、手もとの花に目を落としてから、少女が「ありがとう」と言った。
何かをあきらめたような儚げな笑顔が、黄昏ににじむ。
「ごきげんよう」
挨拶をして、去り行く彼女の背中を見たとき――。
――この人は、このまま夜を越えられるんだろうか。
突然、そんな不安が少年の胸に去来した。
今日は越えられても、明日は、明後日は?
「あのっ」
たまらず少年は声を発する。
「また、花、見せにきます」
約束にもならない約束。
それでも、彼女をつなぎとめておきたかった。
少女がうなずき、小さく手を振った。
日が落ち切って、もう、その表情は見えない。
――この人をここから連れ出すには、どうしたらいいんだろう。
その日から、少年はそんなことを考えるようになった。
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