少年はクチナシの花の香りに世界の広さを思う
クレマチス、アネモネ、ヤグルマギク。
少年は季節の花々を彼女に運んだ。
野良作業用のほうきで軽く窓を叩いて知らせると、彼女が部屋から降りてきてくれる。
一輪、二輪でも、花を差し出せば、彼女の顔はパッと明るくなる。
それが見たかった。
気温が上がり、春も終わろうとするころ。
「ねえ、ちょっといい?」
声をかけられた。
彼女が中二階の部屋から、顔を出している。
「なんでしょう」
少年はどぎまぎしながら立ち止まる。
少女が階段を、すべるように降りてくる。
見慣れた紺のドレスの裾が揺れる。
「見て」
少年の戸惑いをよそに、少女が少年の袖を引いた。
彼女の指さす先に、クチナシの花があった。
「咲いている……」
昨日までは、固くつぼみを結んでいたのに。
そして、晩春のほのほのとした夕暮れの空気にただよう、甘い香り。
「かいでみて」
うながされるまま、少年は純白の花に顔を寄せる。
「甘い……」
そう言って、もう一度、顔を近づけ、息を大きく吸った。
「こんな甘い香りのする花があるなんて……」
――世の中には、俺の知らないことがたくさんある。
広々とした世界の輪郭。それが、おぼろげながら少年に見えた。
「ね、甘いでしょう」
いつの間にか、少女が隣で花に顔を寄せていた。
――顔、近っ……!
「あっ、えっ、はい……」
少年はあわててからだを起こす。
少女が笑った。
「なんです、なにがそんなにおかしいんです?」
「だって、庭師さんがあんまり夢中になってかいでいるから」
「しかたないですよ。こんなにいい香りがする花があるなんて」
少年がそう言ってまた花の香りをかぐと、少女が笑う。
心の奥底がぼんやり温かくなるような、その笑い声。
少年もつられて笑ってしまう。
そうして笑っていると、お互いの立場を忘れ、
ふつうの少年、少女でいられるような気がした。
でも、そんな幻想は、簡単に打ち壊されてしまう。
納屋に道具を取りに行くのを、師匠が後回しにしよう、と言うたびに。
ときどき、彼女の頰が赤く腫れていることに気づくたびに。
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