少年はまだ、その言葉を知らない

少年は、何度も何度も、その日の彼女の笑顔を思い出した。

――花を見たとき、まず、目を大きく見開いて、灰青色の瞳が輝いて。

それと……。

同時に必ず浮かんでしまうのが、彼女の白い胸元だった。

少年は思い浮かぶたび、振り払った。

彼女に悪いことをしている気持ちになったから。

――でも。

少年は思う。あの胸元に、それ以上の場所に触れることができる人間がいる。

そして、その人間は、彼女を日陰に閉じ込めている。

表の庭も見られないような立場に置いている。

――そんな人間に雇われて、俺はここにいる。

屈辱。

少年はまだ、その言葉を知らない。


花びらが散った。

紅とピンクの間の、ほんのりとしたグラデーション。

――ラナンキュラスはそろそろ終わりか。

少年は、伸びすぎた葉や枝をすくように切り、

その流れで散りかけの花にも手を伸ばす。

花は、散るにも力がいる。

しおれた花が、病気の原因になることもあるという。

――まだきれいだな。

外側の花びらをむしり、幾重にも巻いた薄い花びらを眺める。

――これを、あのひとに。

考えかけて、頭を振る。

――この前、ラベンダーを届けたばかりだし。

あまり頻繁だと、うっとうしがられるかもしれない。

少年は日々、次に花を見せにいく機会を悶々と考え続けていた。

師匠に見つかりづらいタイミングも見はからわなければならない。


植物の世話は、楽しかった。

「この時期、夕方に雲が見えたら、遅霜に警戒しなさい」

湿度や温度を手がかりに、天候を予測する。

葉のつやや勢いから、植物の状態を知る。

よく観察すれば、仕事のヒントは身の回りに転がっていた。

「今日は薔薇に、布をかぶせておきませんか。なんとなく湿っぽいので……」

夕方、少年がそう提案すると、師匠はうなずいた。

ほおに当たる風にこれぐらい湿度があって、夜間に気温が下がれば霜が降りる。

次の朝、冬の忘れ形見のような霜が降りた。


経験を蓄積する。

それが、次の仕事の役に立つ。

そのことが、少年にはうれしくて仕方がなかった。

早朝から作業をはじめ、日が落ちるころにはくたくたになる。

夜は、眠い目をこすりながら、師匠が持っている植物に関する本を読んだ。

仕事に打ち込むうち、少年の夢にある夢が芽生えた。


――早く仕事を覚えて、一人前になって。

そうしたら、ひょっとしたら、あのひとと――。


庭を見て喜んでいる彼女。

ちいさな家で、食卓を一緒に囲む彼女と自分。

休みの日は、木洩れ日のもとで、手をつないで……。


少年はとりとめなく未来を夢見て、日々、眠りに落ちた。

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