満開の薔薇を、あのひとに
少年は、ソワソワと落ち着かなかった。
ひとつは、駆け巡る期待。
――あのひとと、たくさん話せるかもしれない。
何を話そうと考えるたび、足が浮き立つような感覚があった。
もうひとつは、のしかかる不安。
――俺ひとりで、庭のめんどうが見られるだろうか。
考えるたび、重しにつぶされるような感覚に襲われた。
アレクが親族とともに都へ出かける。
その間、屋敷の維持に必要な使用人を持ちまわりで残し、あとは暇を取ってもよい――。
執事のスタンレイが使用人を集め、そう告げたのは、10日ほど前のことだった。
使用人たちは、一様にはしゃいだ声をあげた。
昨夜飲み過ぎたらしく、むくんだ顔で不機嫌そうにしていたエリスでさえ、隣に立つ馬丁の肩を叩きながら笑っていた。
――みんな、帰るところや行きたい場所があるんだな。
少年はそんなようすをぼんやりと眺めるばかりだった。
予想もしない休暇に屋敷中がわいたその日の午後。
少年は、師匠とマロニエの木の剪定にはげんでいた。
師匠が脚立に乗り、伸びすぎた枝を切り、少年はそれを地上で受け取り、束ねる。
そういう役割分担だ。
あたりには、伐られたばかりの樹木がたてる青くさいにおいが立ち込めていた。
「アレク様不在の間、わたしは姪のところへ行こうと思っている」
伐られたばかりのマロニエの枝が、目の前に差し出される。
少年がうなずきながら受け取ると、師匠がつづけた。
「お前さえよければ、いっしょに行かないか」
どこか遠慮がちな申し出だった。
少年は、師匠を見上げた。
師匠は、ふさふさした眉をやや寄せて、少年を見ていた。
――心配させている。
つとめて声色を明るくして答える。
「俺、ここに残ります。孤児院でなんでもやってきたから、
身の回りのことはひと通りできますし」
それと、と付け加えた。
「一度、ひとりで庭のめんどうを見てみたいんです」
師匠は少年の顔をしばらく見つめてから、「そうか」と答え、また剪定作業に戻った。
「お前、ひとりでだいじょうぶか」
剪定が終わっての薔薇園での作業中、師匠が少年にふたたび問うた。
「不安はあります。とくに、薔薇は繊細ですから……」
咲き終わった花を切りながら、師匠はちいさくつぶやいた。
「……そうじゃないんだがな……」
それに気づかず、少年は満開を過ぎた花はないかと目を光らせていた。
顔を動かすたび、すぐ隣に立つ師匠の顔が目に入る。
長年の日焼けにより、黒ずんだ肌。
そこに刻まれた、深いしわ。
それらがこの老人の表情をあたたかく見せていた。
――この仕事をつづけていけば、俺もいつかはこんなふうな肌合いになれるだろうか。
師匠の顔を間近で見ると、少年はいつもそんなことを考えた。
師匠がしゃがみ込み、株の根元から伸びようとしている太い枝を手に取る。
「見なさい」
少年もしゃがんだ。
「こういう芽は、先端をいったん摘んでやるほうが、かえってしっかりと伸びる」
少年はうなずき、師匠の浅黒く、太い指が芽を摘むのをじっと見つめた。
「ひとりだと、こういう細かいところにまで手が届くかどうか……。
でも、4日なら、俺ひとりでも、がんばってみます」
師匠がややあきれた顔をして少年を見た。
「アレク様が発ってから、わたしは行くよ。
だから、3日だな。留守中、たのみたいことをまとめておく」
使用人一同でアレクを見送り、予定どおり師匠も発った。
人気の少なくなった屋敷で、少年は板挟みになっていた。
少女とのふれあいへの期待から生まれる浮力と、
庭師としての責任感から生じる重力。
師匠に彼女との関わりを注意されてから、少年と少女のかかわりは減った。
いまでは、窓越しに会釈を交わすぐらいだ。
期待するなというほうが無理だった。
――いけない。
頭を振って、庭の見回りに専念しようとする。
ことに盛りをやや過ぎた薔薇たちは、いま、大切な時期だ。
追肥をしたり、草を間引いたり、終わりかけの薔薇の花を切ったり。
「今日なら、許されるかな」
少年は、一本の薔薇を選ぶ。
まだ開き切らぬ、満開直前の花の、こぼれるようなうつくしさ。
――これを、あの人のもとへ。
少女はもちろん、都へは連れて行ってもらえない。
がらんとした屋敷に残される彼女の境遇を考えると、胸は痛む。
ただ、彼女がアレクの親戚の子に「妾の子」と虐げられているのも事実だった。
帯同できないのは、かえってよいことなのかもしれない。
そんなことを考えながら、薔薇のとげを、ナイフで削る。
ここへ来たばかりのころ、師匠からゆずられたナイフだ。
「すごく使いやすいです」と感動していたら、
「今日からお前が使え」と師匠はぶっきらぼうに言った。
「俺、ねだるようなつもりは」
恥て戸惑う少年に、「そんなこと思っとらん」と、師匠は顔をしかめた。
師匠が丁寧に手入れを繰り返し、使いつづけてきた、ちいさなナイフ。
その刃が川魚の腹のようによく光っている。
とげを落とした薔薇を、日にかざしてみる。
――薔薇を見せるのははじめてだ。
薔薇に限らず、目立つ花を師匠に隠れて持ち運ぶのは難しい。
しかも、散りかけではない、いちばんよい状態のもの。
――あのひと、喜んでくれるだろうか。きっと喜んでくれるな。
少女の表情をあれこれ想像すると、口元がほころんだ。
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