いま、彼女とふたりきりでいる

少年は薔薇を手に、少女の部屋の窓を叩く。

少女が窓から顔をのぞかせ、やがて浮かない表情で階段を降りてきた。

アレクたちに置いていかれて、気がふさいでいるのかもしれない、と少年は思う。「今日はこれを」

薔薇を差し出すと、

「きれい……」

少女がうっとりとした顔をした。

「満開直前。いちばんいい状態です」

「ありがとう」

花を受け取り、少女の表情がふたたびくもる。

何かしゃべらなければ、と少年はあせった。

「ちゃんと食事とか、とってます?」

「執事さんが取りはからってくれたから、だいじょうぶ。

食事は日によって部屋まで運んでもらったり、食堂へ取りに行ったり」

「あの……」

少年が話をつづけようとすると、少女があたりを気づかわしげに見回した。

「いまは、ちょっと……」

――アレクがいない間、誰かに見張らせているのだろうか。

少年もあたりをうかがってみたものの、そんな気配は感じられない。

「ほんとうにありがとう。こんなきれいな薔薇」

少女が鼻を近づけて、薔薇の香りをひとかぎした。

伏せたまつげの長さ、小さな鼻。

少年がその姿に見とれているうちに、

「わたし、もう、行くね」

少女は急ぎ足で部屋に戻っていく。

少年は期待を宙ぶらりんにして、その場に取り残された。


庭師小屋へ帰って、師匠が置いて行ってくれた帳面を読む。

師匠は絵も堪能で、図解つきで植物の世話の仕方がまとめられていた。

その横には、「新世界植物学」「庭園の歴史」といった書籍。

これも師匠から借りたものだ。

少年にとって、学ぶべきことはまだまだたくさんあった。

読書に没頭しているとき、小屋の扉がノックされた。

少年が誰何しようとしているうちに、扉が開かれる。


入ってきたのは、少女だった。

青ざめて、髪を乱している。

「ごめんなさい。お返事を待たずに」

胸の前で手のひらをぎゅっと握っている。

「どうしたんですか」

椅子をすすめながら少年が尋ねても、少女は立ったままだ。

「……その……」

言いよどんだあと、

「ここに、置いてもらえませんか。しばらく」

と、なんとかしぼり出すように言う。

「置く?」

「迷惑ですよね、ごめんなさい」

顔をひきつらせて出ていこうとする彼女を、とっさに止める。

思わずにぎった手首を、すぐに離す。

外気に当たったせいか、その肌はひんやりと冷たかった。

心臓が大きく打つ。

「迷惑とかじゃないです。ただ、意味がわからなくて」

「何時間かだけでいいの。お邪魔しないので、ここにかくまってください」

「かくまう?」

少女が眉を寄せた。

「ごめんなさい、何も聞かずに」

そのとき、風が吹いたのだろう。外のしげみがさがさと音をたてた。

少女がびくっとからだを震わせ、両手でからだを抱く。

――ほうっておけない。

「この小屋にお嬢様をいさせる。それだけでいいんですか?」

少女はうなずいた。

「なるべくお邪魔にならないようにします」

「俺は気にしません。腰かけてください」

少女がテーブルについたのを見て、湯をわかす。

庭師の小屋には、ちいさな料理用ストーブが置かれ、簡単な炊事ができるようになっていた。

とはいえ、燃料の石炭を節約するため、めったに使わない。

――一回ぐらいなら、師匠にバレないだろうか。

使用人の間で出回っている出がらしの茶葉をポットに入れて、湯を注ぐ。

古いカップから、いちばんきれいなものを探して、茶を淹れる。

「お口に合わないと思いますが」

手渡すと、少女が弱々しくほほ笑み、「ありがとう」とちいさな声で礼を言った。

ひと口飲んで、「おいしい」と、やはり力なく笑顔をつくった。

気がかりな心を押し殺し、少年は少女と差し向かいに腰かける。

気分を変えようと、今度は本を手に取った。

彼女はだまって見ているだけだ。

しかし……。

――いま、ふたりきりでいる。

少年の胸は高鳴るばかりだった。

「庭師さん、読み書きができるの?」

少女がカップを手にたずねる。

「ええ。孤児院にいるとき、慈善活動をしているひとから習ったんです」

「何を読んでいるの? しんせかいしょくぶつがく……庭づくりのご本?」

少年がうなずくと、少女が「勉強熱心なんだね」と感心した表情をした。

「知らなきゃいけないことが、たくさんありすぎて……」

北にある庭師小屋は暗い。

まだ夕方には早いが、少年はろうそくを灯す。

「植物って本当にたくさんあるし、外国からだって新しい植物はどんどん入ってくる」

「新しい植物……。くちなしみたいな?」

くちなし、と聞いて、ふたりで顔を見合わせてほほえんだ。

初夏、少年は生まれてはじめてくちなしの花の香りをかいだ。

その香りの甘さに驚いた少年の顔を見て、少女が笑った。

ふたり、同じことを思い出して、ふふふと笑う。

「庭師のお仕事、ほんとに好きなんだね」

「植物は、世話をすると応えてくれるから。

上手くいかないこともたくさんありますけど」

「将来は、ひとりでお庭をつくったり、お世話したりするのかな」

少女が夢見るような口調で言った。

――将来。

いまの延長線上に、何かがある。

この屋敷に来る前、その日その場をどう生きるかばかりを考えていた少年にとって、それは新鮮な感覚だった。

「そうですね。俺は……いつか、ゼロから庭を作ってみたい」

「庭師さんがつくる庭、見てみたいなあ」

少女がにこやかに言った。

そのことばがうれしくて、

「いつか、いつか叶ったら……。ぜったい見てください」

少年はテーブルに身を乗り出した。

――できればそのときは、あなたが隣にいてくれたら。

どうすればそんなことが叶うか、少年にはわからなかったけれど。

「でも、約束はできないかな」

少女はカップに視線を落とした。

「わたし、そのころにはどうなってるかわからないし」

沈黙が、庭師の小屋に落ちる。

少年は何度か本に視線を落としてから尋ねた。

「お嬢様は、何かやりたいことはないんですか」

少女はすこし考えてから首をふる。

「わたし、なんにもできないから。

メイドにするのも人聞きが悪いって、家事もさせてもらえないし」

そして、自嘲気味に付け足した。

「できそこないだもの」

それを聞くと、少年はなぜかムッとした。

「そんなことないでしょう」

少女がかなしいような、あきらめているような表情でうつむいた。

「もし……もし、お嬢様が、お屋敷の外で、自由に暮らせたら?」

「外かあ……」

少女が、明かり取りの窓を見上げながら言った。

「外で自由に生きるって、どんな感じなんだろう」

そして「想像できない」と笑った。

――このひとは、外での暮らしを夢見ることすらできないのか。

少年の心に、悔しさに似た何かがわきあがる。

「あっ、でもね、料理はしてみたい」

少女が料理用ストーブを見やった。

「わたしもね、読み書きができるんだ。

執事のスタンレイさんいるでしょ。あのひとが教えてくれたから」

スタンレイさん、意外とやさしいの、とほほえむ。

「それで、アレク様が読み終わった本とか、

大奥様が昔読んでいた本をときどき持ってきてくれて。

狩猟の本とか、小説とか、ほんとにいろいろなんだけど」

そのなかに、料理に関する本もあったのだという。

「クランペットとか、オムレツの基本の作り方とかが載っていてね」

「なにか作ってみたいものは?」

「ぜんぶ。でも、とくにクランペットを焼いてみたいな。

お家ごとに配合や焼き方がちがうんだって。

それと、その本にあった料理じゃないんだけど、ミートボール。

スモモのジャムをかけるやつ」

「なんです、その料理は?」

「母様が作ってくれた料理。マッシュポテトも添えてね。

わたし、生まれはここよりずっとずっと北の国だから、そこのお料理だと思う」

「北の国……?」

「オーロラの国っていうの。知ってる?」

少年は首をふる。

「その国では、光の帯が夜空にかかるんだって。

それが、オーロラ。

ちいさいころにこっちに来たから、わたしも見たことがないんだけど」

夜空にかかる、光の帯。

少年にはうまく想像がつかなかった。

でも――。

アーモンド型の瞳、ちいさめの鼻、抜けるような白い肌。

そして、この国の女性にしては、小柄なからだ。

少年は背が低いほうで、ほとんどの女性は自分と同じくらい。

しかし、少女とは、背丈が頭ひとつ分近くちがう。

そんな少女を、ときどきちいさな女神か妖精みたいだと感じる謎が解けた気がする。

――きっと、このひとが、遠いところから来たから。

ろうそくの灯りが、うれしそうに話す彼女の表情をよりやわらかく見せている。

「いつかお料理をつくって、だれかに美味しいって言ってもらう。

それが夢っていえば夢かな」

そんなこと、と少年は思う。

簡単に叶いそうなものなのに。

「じゃあ、そのいつかのために、キッチンの使い方、見てみます?」

少年がレンジをさした。

「なんにもないから、石炭入れて湯をわかすぐらいしかできませんけど」

「やってみたい!」

少女の顔が明るくなる。

「ここにまず、石炭を入れて……」

少年がレンジについたハッチを開け、説明をはじめたとき。

穏やかな時間は、突然のノックの音に破られた。

少女の顔がこわばる。

「わたしがここにいること、誰にも……」

少年はうなずく。

ドアの外にいるのがだれであれ、主の不在時、

彼女とふたりきりでいるところを見られてよいことはない。

少女を導いて、寝台の下へ身をかくさせる。

「どなたですか?」

少年は息を深く吸い、扉を開けた。

そこには……。

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