ひざまずいて、愛を
「なあ、お嬢様、知らない?」
そこにいたのは、この屋敷で下男を束ねるエリスだった。
長い髪がだらしがなく、プレイボーイ風の印象を与える。
なれなれしく、女の話と噂話が好きな男。
少年はこの男が苦手だった。
「ここにいるんだろ?」
「知りませんよ。何か用なんですか?」
警戒しながら、少年は答える。
「本当に?」
扉を強引に開け、エリスが小屋へ入ってくる。
「ちょっ、勝手にやめてください」
抗議するが、エリスはいっこうに気に留めない。
さっきまで少女が座っていた椅子にどっかりと腰を下ろし、脚をテーブルに乗せた。師匠と自分の領域が汚されている。
そんな不快感を覚える。
「へえ。カップがふたつ、ねえ」
エリスがテーブルをあごで指す。
――しまった。
「庭師の師匠はいないのに?」
「片付け忘れたんです」
少年はカップを下げた。
男が立ち上がり、もう一方の椅子の座面にふれた。
「こっちもそっちもあたたかい」
「俺が座る位置を変えたんです。
変な言いがかりをつけないでください」
少年は焦りをにじませつつも、言い返す。
「お嬢様ー、出ておいで」
男がふたたび椅子に腰かけて脚を上げ、大声で呼んだ。
「ここにはいませんよ」
「なあ、正直になろうや」
男がニヤニヤしながら聞く。
「おまえ、あの子とヤッたの?」
「なっ」
あまりの露骨さに、顔がひきつる。
「そんなわけないでしょう。あのひとはこの家のお嬢様ですよ。
それに、アレク様の……」
ごまかそうとしたところを、男が無遠慮に引きついだ。
「玩具だろ。たまったときに使う」
侮辱したもの言いに、思わず手が出そうになる。
――ここでもめ事を起こしたら、師匠に迷惑がかかる。
唇を噛んで耐えた。
「とにかく、お嬢様はいません。出ていってください」
この男のことばを、彼女も聞いている。
その心中を思うとたまらなくなる。
少年のあせりをよそに、エリスは出ていこうとはしなかった。
「だいたい、お嬢様に用なんてないでしょう」
「あるんだなあ。みんなで遊ぼうって約束していたのに、すっぽかされたんだよ」
「何するつもりなんだよ、あのひとに」
怒りがおさえれなくなっていく。
「だから、遊ぶんだよ。いっしょに、仲よく」
ぞっとするような下卑た笑い。
――抑えろ、抑えろ。
殴りかかりたい気持ちを必死でこらえる。
ここで暴力沙汰を起こしても、たぶん彼女は守れない。
「あまり無遠慮な態度を取ると、アレク様に言いつけますよ」
怒りで声が震えている。
「アレク様に言いますよ、か」
エリスはくくくっと笑った。
「告げ口して追い出されるのはあの女のほうだぜ。
使用人を誘惑したってな。
あばずれにふさわしい場所へ売られるだろうさ」
「あのひとを侮辱するな」
少年は、目の前の男の襟首をつかみあげる。
しかし、エリスはひるまない。
「あれ? 見習い庭師くんは、お嬢様に気があるのかな」
「そんなわけないだろ。あのひとはお嬢様で、俺は使用人で……」
「お嬢様? ありゃ妾の連れ子か、どっかの売女の子だろ。
アレクの相手をすることで、この家に置いてもらっている」
「おまえ」
奥歯がきしむ。
「お嬢様どころか、ある意味で俺たち使用人以下なんじゃないか」
「……っ」
少年は拳を振り上げる。
が、男の口元に笑みが浮かんだのを見て、我に返る。
――挑発だ。
拳を下ろして両手で襟首をつかみ、エリスを引き立たせた。
「出ていけ」
少年の手を振り払い、エリスが椅子から立ち上がる。
とたんに、少年は見下ろされる形になった。
「そんな怒んなよ。あんな女をかくまって、
アレクに告げ口されて困るのはお前のほうじゃないのか」
「だからいないって言ってるだろ。出ていけ」
「おお、怖い怖い」
下男長を押し出し、扉を閉める。
この小屋には鍵がない。
少年は椅子をひとつ引き、扉の前に置いた。
「お嬢様~。いるんだろ~」
エリスの声と足音が小屋のまわりを三周ほどして、やがて聞こえなくなった。
「お嬢様」
寝台の下をのぞきこむ。
少女が震えていた。
「もう大丈夫ですよ」
はい出る彼女に手を貸す。
唇をかんで、青ざめて、何かに耐えている顔。
聞きたいことも、かけるべきことばも、たくさんあるような気がした。
でも、何も言えなかった。
――このひとは、この屋敷で何を……。
アレクも師匠も不在のいま、彼女の手を引いて外の世界へ。
そんな夢想が少年の心をよぎる。
しかし、そのあとは?
彼女を守っていけるのだろうか。
少年は外で生きる苛酷さを知っている。
ふたりで路上で行きだおれるわけにはいかない。
寝台に腰かけた彼女が、青ざめたまま言った。
「ごめんなさい。迷惑かけて」
「迷惑なんて」
少年は首をふる。
寝台に並ぶのはぶしつけな気がして、少年は椅子に腰を下ろす。
「お願い。今日のこと、誰にも言わないで」
少女がぽつりと言った。
「アレク様にも」
「でも、あいつ、あなたに……」
「あのひとの言う通りなの」
声が震えている。
「追い出されるのは、きっとわたしのほう」
膝のうえで握ったこぶしに、涙がぱたぱたと落ちた。
「アレク様に……アレク様に嫌われたくないの。
アレク様に捨てられたら、わたし、生きていけない」
――あんな男を、なんで。
彼女を納屋に連れ込み、乱暴に相手をさせる男。
それにつけこむ卑怯な使用人。
何もできない無力な自分。
そして思う。
彼女の心は、アレクのもとにある。
自分が強引に連れ出したところで、このひとはよろこぶんだろうか。
「ずうずうしいとは思うの。ごめんなさい」
「あやまることなんてない。まちがってるのはあいつらのほうだ」
思わずテーブルを叩く。
「ありがとう」
少女が憔悴した顔で礼を言う。
「さっきも、侮辱するなって言ってくれた」
「あなたがあんなこと言われるいわれはないでしょう」
少女に背を向けて、少年が言う。
その肩が小刻みに震えている。
「でもね、あのひとの言ったこと、ほとんど本当なの。
母様は、先代の妾でも娼婦でもなかったけど。
先代のミハイル様は、ただ困っていた母様を助けてくれただけ。
でもね、わたしがお嬢様なんかじゃないのはほんと。
お情けでこのお屋敷に置いてもらっている、ただの身寄りがない子」
少年は唇を噛む。
「だから、しょうがないの」
噛んで噛んで、口のなかに鉄の味がする。
身寄りがないから、惚れた男にあんな扱いをされるのか。
身寄りがないから、あんな男につけこまれるのか。
「しょうがないわけないだろ!」
思わず怒鳴って立ち上がる。
椅子が倒れた音で、我に返る。
ゆっくりと呼吸をし、気持ちを鎮める。
――伝えなければ。
「お嬢様」
少年は振り返ると、寝台に腰かける少女の前にひざまずいた。
「お嬢様がここでされていること、まちがっています」
切々と説く。
「お嬢様は、誰のものでもない。
好きにしようとするやつがいたら、そいつがまちがっている」
「でも」
「お嬢様は、行き場がない人間がいたらつけこみますか?」
少女が首をふる。
「でも、わたしはほかのひととちがうもの。しかたないの」
「ちがいません。
あなた、俺が孤児だからってここでこき使われていたら、
正しいなんて思わないでしょう」
「庭師さんはいいひとで、お仕事だってできる。
できそこないのわたしとは、ぜんぜんちがう」
「俺のことを知らなくたって、あなたは俺をかばいますよ」
「なんでそんなことがわかるの?」
「知ってるからです」
「なにを?」
「あなたを」
少年は目をそらさず言った。
少女が先に、目をそらす。
「なんにも知らないくせに」
「知っています」
ちょっとムッとした顔で、少女が問うた。
「わたしのなにを知っているの?」
――伝えなければ。
少年の心にあったのは、使命感に近いものだった。
「弱い者にやさしいこと。
いつもひとのことばかりで、自分はあとまわしなこと。
一生懸命なこと。
一途なこと。
仕草が愛らしいこと。
何より、あなたがきれいなこと」
少女が赤くなり、うつむいた。
「わたし、きれいじゃない。あのひとが言ったこと、聞いたでしょう……」
そこまで言って、少女の瞳から涙が流れた。
「あなたはきれいです」
少年は言い切った。
「俺はそれを知ってる。でも」
視線を落とし、少年はつづけた。
「俺がそう思ってることなんてどうでもいい。
あなたが雑に扱われるいわれはない。
もっときちんと、大切にされるべきです」
少年が顔を上げる。
黒い瞳でまっすぐ少女の顔を見る。
「手にふれても?」
少女がうなずくと、少年はその右手を取った。
そして、そっとにぎった。
できるだけ繊細に。
宝物をあつかうように。
「あなたはうつくしいですよ、とても」
少女が少年の目を見た。
黒い瞳に吸い込まれたかのように、じっと少年を見つめた。
しばらく見つめ合ったのち、少年がパッと手を離した。
「もうしばらくここにいてください」
少女に背を向けて、倒れた椅子を起こす。
「夜中、みなが寝静まったころに、お部屋にお送りします」
少年は読書にもどった。
――落ち着かない……。
そう思う一方、不思議と安らぎを感じている自分もいた。
振り向くと、少女が寝台に腰かけたまま、うつらうつらしていた。
少年は考える。
――このひとがあの男に「遊び」を約束させられたのはいつなのだろう。
昨夜はそれを恐れて眠れなかったのではないか。
今日だって、追い回されて疲れたにちがいない。
肩に毛布をかけると、そのまま少女が寝台に倒れ込む。
すうすうと寝息をたてる姿が無防備で愛おしい。
ほおに手を伸ばし、引っ込める。
ふれたら自分が抑えられなくなりそうだった。
「おやすみなさい、お嬢様」
ふたりきりの静かな夜がふけていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます