月が輝き、星が煌めき、 天の光が薔薇の夜露に、そして彼女の瞳に宿る

少年は、目を覚ます。

本を読んでいるうちに眠ってしまったらしい。

彼女もまだ、眠り込んでいた。

「お嬢様」

声をかけると、ゆっくりと目を開ける。

「庭師さん……?」

寝ぼけたようすで目をしばたたかせたあと、ハッとした。

「わ、わたし、眠ってしまって。ごめんなさい」

それを見て、思わず少年はくすっと笑う。

「気にしないでください。部屋までお送りします」


ランタンを手に少女を部屋に送ってから、少年は空を見上げた。

――今夜は満月か。

中空を過ぎ、沈みゆく月が、裏庭を青白く照らしていた。

庭師小屋の前で、思いついて、ふっとランタンを消してみる。

歩くのに支障はなさそうだ。

少年はきびすを返し、少女の部屋の窓をたたいた。

「どうしたの?」

すでに白いネグリジェに着替えた彼女が、窓から顔をのぞかせる。

「ちょ、ちょっと、あの、お話が」

その姿を見て、少年はうまく話せなくなってしまう。

少女がショールを羽織り、部屋から降りてきた。

不思議そうに小首をかしげる彼女に、思い切って言う。

「あの、表の庭、見に行きませんか」

「お庭?」

「今夜なら、月の光があるから、ランタンなしでも歩けそうなんです」

みんな寝ているからだれにも見られません、と付け足す。

「わあ」彼女が顔の前で両手を合わせ、「行きます」とほほえんだ。


「こっちです」

なるべく人目につかないように、ふたりで息をひそめて移動する。

木の陰からしげみへ。また、大きな木の陰へ。

「きゃっ」

彼女が石につまずく。

「大丈夫ですか」

とっさにそのからだを支え、少年は赤くなる。

「そ、その、暗いし、危ないので。お嫌じゃなければ」

少年は、彼女の手を取って引いた。


はじめて屋敷に来た日、師匠にうながされて登った楡の木。

そこまで来ると、木に登らずとも、庭の全景が見えた。

「こっちのくねくねした道が通っているほうは自然を模していて、

あっちの噴水があるほうは整形式庭園といって……」

声をひそめながら、少年は解説をする。

彼女はとなりで、真剣な目をしてうなずいていた。

「いきましょう」

手を取り合い、ラベンダー揺れる田舎の風景を模した小径を、

整形式庭園の四角く刈り込まれた木々の間を、駆けた。

月の光の下では、見慣れたはずの庭園が、まったく違って見える。

オレンジやキュウリを育てている温室では、ムッとした空気のなか、そろそろと歩いた。

そしてふたりは、お屋敷の南側にある薔薇園にたどり着く。

彼女にいちばん見てもらいたかった場所だ。

「ここならゆっくり見られますよ。

薔薇園はこの屋敷のいちばんの自慢ですけど、

お屋敷のなかからは見えづらくなっているんです」

「どうして?」

「薔薇は花の季節が短いから、

いつも目に入る場所にあるのは都合が悪いって考えるみたいです。

そういう慣習も、最近は変わっているらしいですけど」


月の光が、薔薇の花を、艶やかな葉を、棘を、光らせている。

少年自身、花々の姿に魅入られていた。

「薔薇って、こんなによい香りがするのね」

彼女が花に顔を近づけていう。

アーチにつるを絡ませ、こぼれるように咲いている薔薇だ。

「これはダマスクローズの一種で、『マダム・ゾイットマン』」

「ひとの名前がついているの?」

「薔薇はそういったものが多いですね。こちらは『ヴィクトリア女王の薔薇』」

「女王さまの……。みんな香りが違うのね」

薔薇のアーチから漏れるあえかな月光が、

白いネグリジェを着た彼女を照らし出している。

うっとりとアーチを見上げる、やわらかそうな頬の輪郭。

薔薇に集中しているときは、なんともなかったのに……。

――落ち着け、俺の心臓。

「アーチ全体に薔薇を咲かせたいときは、枝を持ってきて、

こうして横に這わせるんです」

身ぶり手ぶりをまじえて、なんとか薔薇の話をつづけようとする。

「庭師さん、よく知ってるのね」

少女が感心した表情を見せる。

彼女が頭を動かすと、銀灰色の髪がきらりと光った。

「この先、もっときれいなんです」

少年は、少女をいざなった。


薔薇のアーチを抜けると、丸い空間が開け、その中央に東屋がある。

白い柱に支えられた丸い天蓋がついて、アイアンのチェアとテーブルが置かれている。

少年が椅子を引くと少女がチェアに腰かけて、周囲を見まわす。

「わあ」と小さな声がもれる。

薔薇の世話をしながら、このチェアやテーブルを手入れしながら、

少年はいつも思っていた。

――この場所で、あの人に、薔薇を見てもらえたら。

その夢が、いま、叶った。

「夢みたい」

月が輝き、月光に負けない星が煌めき、

天の光が薔薇の夜露に、そして彼女の灰青色の瞳に宿る。

――きれいだ。

それは少年が夢見たよりも、はるかに美しい光景だった。

「ねえ、庭師さん。もっといろいろ、薔薇のお話を聞かせて」

少女が立ち上がり、薔薇園を駆けていく。

初夏の風が彼女の銀灰色の髪を、薄いネグリジェのすそを揺らす。

――この世界には、自分の想像を超えた幸せがある。

少年は、生まれて初めて知った。

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