「ナギさんが無理して、倒れてしまったら」
ナギの熱が下がった日。ユメリアはひとり、街へ出た。ふだん出かけるのは、決まった店への買い物ぐらい。長時間、よく知らないエリアまで足をのばすのは、まだ緊張した。
――でも、がんばらなくちゃ。
手のひらをきゅっと握る。住まいを探したとき、掲示板に求人が貼ってあるのを見た覚えがある。以前、ナギと回った場所を思い出しながら街を巡る。そうするうち、酒場などの外壁に「給仕募集」と直接チラシが貼ってあることにも、ユメリアは気がついた。
――酒場は、男のお客さんが多いから、きっと無理……。
どうやら、世の中には、たくさん求人があるらしい。とはいえ、自分には何ができるのか、ユメリアにはわからなかった。
ため息をついたユメリアの目に、「工場でお針子募集」と書いてあるチラシが目に入った。
――これなら、ひょっとしたら。
ユメリアは持ってきた街の地図を広げ、工場の場所を確認する。
その工場は、色街に近いエリアに建っていた。煉瓦づくりの門からなかをのぞき、思い切って敷地へ足を踏み入れる。工場の手前に事務室があり、老眼鏡をかけた初老の男が帳面に何かを書きつけている。
「あのう。求人を見て来たんです」
ユメリアがおそるおそる声をかけると、男が顔をあげた。眼鏡をずりあげ、ぎょろっとした目で、ユメリアをじろりと見た。
「ここへ」
男は事務机の隣に椅子を持ってきて、指さした。
「わたし、ユメリアと申します。あの、ここでお針子を募集していると……」
ユメリアがぜんぶ言い切らないうちに、男が質問した。
「名字は?」
「失礼しました。ドーンです。ユメリア・ドーン」
ナギの姓はシノノメ、ユメリアの姓はボルヴァだが、ともにこの国ではなじみが薄い。ゲルバルドからは、身を隠す以上、当たりさわりのない姓を名乗ったほうがいいとすすめられていた。「ドーン」という姓も、ゲルバルドがつけてくれたものだ。
「あんた、どっか工場で働いたことあるの?」
ユメリアは首をふる。
「お針子の経験は?」
ユメリアはすこし考えてから言った。
「ボタン付けと……、このスカートのサイズを直したくらいなら」
「なんの経験もないのか」
男がため息をついた。
「それじゃあ、だめだね」
「あ、あの、じゃあ、どこかで経験を積んだら雇っていただけるんですか?」
ユメリアは食い下がった。これからどうすればいいのか、すこしでもヒントがほしい。男がジロリとユメリアを見やった。
「そんなこと、自分で考えな。とにかくうちでは、経験がない人間はいらないんでね」
ユメリアはうつむいて席を立つ。
「ありがとうございました。ごきげんよう」
ユメリアはとぼとぼと歩いた。
――わたしを雇ってくれるところなんて、あるのかな。でも、ぐずぐずしているうちに、ナギさんが無理して、倒れてしまったら……。
不安が胸に去来する。
嫌なにおいが鼻をつき、ユメリアはどぶ川沿いの色街に足を踏み入れたことに気がついた。リュートックへ来た初日、ナギと宿を探し回ったあたり。
――早く、ここを抜けなきゃ。
足を速めたそのとき。
「お仕事、探しているの?」
ユメリアは、ひとりの男に声をかけられた。男が出てきたのは、連れ込み宿の一軒だった。それでも、ユメリアは足を止めた。仕事の話なら、なんでも聞きたかった。
――あやしかったら、逃げればいいんだし。
そこにいたのは、色が白く、むっちりと筋肉質な男だった。どこかで会ったような気がする。街へ来てからはたくさんの人とすれ違ったから、そのせいかもしれない、とユメリアは自分を納得させた。
「君、工場へ入っていったから、ひょっとして働きたいのかなと思ってね」
ユメリアは警戒しながらも、うなずいた。
「ええ、お仕事を……」
「それはいい。ちょうど、宿の掃除をしてくれる人を探していたんだよ。簡単な仕事だから、どうかな?」
男は細い目をいっそう細めてニコニコ笑っている。
「ぜひ、お願いします」
「じゃあ、こっちへ」
男はユメリアを、宿のなかへとみちびいた。
――街へ来た日、この宿でも、泊まれないか聞いたな……。
ユメリアは思い出す。男はいったん帳場に入った。
「どうやるか、見てもらったほうが早いと思うんだ。掃除道具を持っていくから、先に部屋へ行っていてくれる? そこの奥の部屋だから」
狭く暗い廊下を何歩か進んで、ユメリアは足を止めた。
――ここ、ナギさんと逃げた宿だ。
一度、満室だと断られたのに、「狭い部屋なら空いている」と言われた宿。あのとき、ユメリアは「やっと宿が取れた」とほっとしたけれど、ナギは断り、あわてて宿から出た。そして言った。「あのひと、あなたを見て言うことを変えました」。
ユメリアはきびすを返した。しかし、すでに廊下の入り口には、男が立っている。
「わたし、用事を思い出して……。し、失礼します」
うわずった声でまくしたてて戻ろうとするが、男は動かないまま、狭い廊下をふさいでいる。
「あの、あの、わたし、帰ります」
「困るよ、お仕事してくれるんでしょ」
男が前に出る。ユメリアは反射的に後じさった。
「おとなしくしてくれたら、すぐ終わるよ」
男が伸ばした手を、ユメリアは振り払った。逃げようとしたところ、ブラウスの布地をつかまれる。しかし、布地が破け、かわりにユメリアは自由になった。ユメリアは悲鳴をあげながら、廊下の奥へと逃げた。
いちばん奥の部屋へ入り、鍵を閉め、扉を押さえた。鍵ががちゃがちゃと回る。ナギのことばを、また思い出した。
――宿の人間なら、鍵だって持っています。
ユメリアは部屋を見回す。すえたにおいがただよう空間に、寝台と小さなテーブル、スツール。扉の向かいには、ちいさな窓がひとつ。くぐり抜けている間に、男につかまってしまいそうだ。
外から回された鍵を、すんでで閉める。
「くそっ」
男が毒づく声が聞こえ、ふたたび鍵を開けはじめる。ユメリアは、せいいっぱい体重をかけて、扉を押さえる。ふたたび開けられた鍵を閉めようとするが、錠が回らない。男が鍵を差し込んで回しているらしい。ドアノブが回り、扉が力づくで開かれようとしている。
――ナギさん……ナギさん。
ユメリアの視界に、薬指の指輪が目に入った。
――あのひとのために、しっかりしなきゃ。
呼吸を意識して、深くする。ゆっくり吸って、止めて、ゆっくり吐いて。
踏ん張った足が、ずるずると後ろへと下がる。やがて押し負けて扉が開き、ユメリアは後ろへ跳ね飛ばされた。
「困るよ、おとなしくしてくれないと」
男がにんまりと笑って、部屋の入り口に立ちはだかった。
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