「何も知らないくせに」
「掃除の仕事じゃないんですか」
ユメリアは床に尻もちをついたまま、じりじりと後退した。息を大きく吸って、吐いて、また吸って……。
――落ち着いて、落ち着かなきゃ……。
「信じたのか。純朴だなあ」
男がうれしそうに笑った。
「あのとき思った通りの上玉だ。その顔でスレてない。あんた、稼げるよ」
「何言ってるんですか」
目に入ったスツールを手に取り、ユメリアは脚を男に向けた。
――逃げないと。
「ちゃんと仕事を紹介してやるって。ここで客を取らせてやる」
「近よらないで!」
スツールを振り回し、男を遠ざける。
「危ないなあ」
男の手が難なくスツールの脚をつかみ、そのまま振り回した。ユメリアは寝台のへりに叩きつけられる。衝撃にうめくユメリアに、男がしゃがみこんで、手を伸ばす。
「そろそろ味見を……」
そのとき、帳場のほうから声が響いた。
「ジョン、いるのか」
声とともに、足音が近づく。ユメリアはとっさに叫んだ。
「助けて、助けてください!」
ジョン、と呼ばれた男は舌打ちし、「黙れ」とユメリアの口を押さえた。手足をばたつかせながら、ユメリアは必死に言い聞かせる。
――パニックになっちゃだめ、落ち着かないと、落ち着かないと。
やがて開いたままの扉の向こうに、男が現れた。黒髪で目つきの悪い、東洋系の男。上背が高く、胸板は厚い。頬の傷が目を引いた。
「何やってんだ、お前」
ジョンが媚びた笑みを浮かべ、「すみません、リウさん」とあやまった。リウはユメリアに目もくれず、尋ねた。
「今月分の返済はどうした」
「リウさん、本当にすみません。明日、明日には」
リウは扉を蹴りつけた。古い木の扉にささくれだった穴があく。
「お前さあ、それで何日ダラダラのばした?」
リウがジョンに近づく。その手にナイフが握られている。
ユメリアの口をふさぐジョンの手がふるえている。
「何日のばしたか、言ってみろ」
ジョンの喉元に、ナイフが突きつけられる。
「と、十日、です……」
「今日、今から金作れよ。知り合いにでも家族にでも借りろ。俺もついていってやるからよ」
ジョンが脂汗を流す。
「これ、これを売ります。田舎娘ですが、なかなかの上物です」
ユメリアがもがく。
「へえ。親に売られたとか?」
リウがユメリアの顎にナイフをあて、顔を上げさせる。
――黙っていたら、もっとひどいことになる。
そう考えた瞬間、反射的に、ユメリアはジョンの指にかみついた。
「いてえ」
ジョンが手を振り払い、そのはずみでリウのナイフの切っ先がユメリアの頬を切る。
「このアマ」
張り倒されて、床に倒れる。それでもユメリアはまくしたてた。
「わたし、売られてなんかいません。だまされたんです。道で、掃除のお仕事があるって声をかけられて。売られる筋合いはありません」
リウの瞳から放たれる眼光は鋭い。が、ユメリアはひるまずその目を見つめた。その背中をジョンに蹴られ、ユメリアは悲鳴をあげた。
「あとで痛い目にあわせてやる」
背中も頬も痛い。でも、できる限り抵抗しなければ。
「わたしに何かあったら、夫だって黙っていません」
「あの弱そうな男が?」
ジョンがあざわらう。ユメリアは我を忘れ、生まれてはじめて人の頬を張った。
「何も知らないくせに」
ユメリアの右手を、ジョンがとらえた。
「こいつ……」
怒りを宿したジョンに対して、ユメリアは引かずににらみつけた。
そのとき、リウが言った。
「人さらいじゃん」
「えっ……」
ジョンは一瞬戸惑った。
「こいつら一度、うちの宿に来たんですよ。夫といってもまだまだ子どもです。田舎から出てきた感じで、足なんてつきません」
「そういう問題じゃないだろ」
リウは苛立たし気に言った。
「その辺歩いてる女を適当につかまえて売る。それってただの人さらいだろ。お前、何考えてんだ」
「でも……この女さえ売れば、金が返せるんです」
「カタギの女さらって売るようなまね、治安が乱れるからやんなってボリスさんに言われなかったか」
リウのもつナイフが、ジョンの頬をピタピタと打つ。
「お前、ボリスさんのシマ荒らして作った金で、借金返すのか」
「す、すみません」
「わかったら、女は帰せ」
ジョンが手を放すと、ユメリアはその場にへたりこみ、這って扉のほうへ移動した。
「なあ。金は明日までに作れよ」
ユメリアは部屋の入り口で、壁に手をついてなんとか立ち上がり、よろけながら歩き出した。宿を出たところで、遅れて出てきたリウから声をかけられる。
「おまえ、だいじょうぶか」
ぜんぜんだいじょうぶじゃない、とユメリアは思う。ブラウスは破られている。殴られた頬は熱を帯び、腫れているのがわかるし、そのうえナイフの傷がついている。怖くて震えが止まらない。何より……。
――ナギさんになんて言おう。
この姿では、ごまかすことはかなわない。ナギを助けるはずが、かえって迷惑をかけてしまう。ユメリアは泣くまいと歯を食いしばる。
「だいじょうぶです」
自分に言い聞かせるように答えた。
「これ、羽織れ」
リウがジャケットをよこす。迷ったものの、ユメリアは受け取り、肩にかけて前を合わせた。
「頬の傷、すまなかった」
「いいんです。おかげでこうして助かりました」
早く立ち去りたいのに、からだが芯から震えて、うまく歩けない。
「それで帰れるのか」
「ほうっておいてください。上着は後日、お返しします」
リウが辻馬車を止め、ユメリアを強引に乗せた。
「お前、家は」
リウは明らかに正業の人間ではない。家を知られて、大丈夫だろうか。一瞬、逡巡する。
「心配なら、家の手前で下ろしてやる」
それを察したのか、リウが言った。
「川沿いの、桟橋の近くです」
馬車が駆けていく。窓の外は、暗くなりはじめている。ナギはきっと、もう帰っている。
――またあのひとを、心配させてしまう。
涙がこぼれ、そうなると止まらなった。顔をおおって泣くユメリアに、リウは何も言わなかった。
家よりずっと手前の場所で、馬車を降ろしてもらった。リウがいっしょに降りたのを見て、ユメリアは青ざめる。御者に待つように伝えてから、リウが言った。
「旦那が家にいたら、ここへ呼べ」
ユメリアが警戒心をあらわにする。
「夫になにか?」
「女の顔に傷つけたなら、謝らないと筋が通らない」
そのとき、向こうから、「ユメリア」と呼ぶ声が聞こえた。
「ナギさん」
ユメリアが走り寄る。ナギは仕事帰りに、そのままユメリアを探しに来たのだろう。油と煤で汚れたシャツを着て、手ぬぐいを首にかけている。ユメリアの姿を見て、ナギが顔色を変える。
「あなた……何が」
背後のリウをにらみつける。
「わたし、だいじょうぶです。心配しないで。あのひと……リウさんに助けてもらったの」
ナギはけげんな顔をする。
「それで、リウさんが、話があるって」
「ちょっと外してくれ」と言われ、ユメリアは川の堤にのぼって見守った。ふたりとも東洋系ではあったが、背はリウのほうが高く、体格もしっかりしている。逢魔が時、ふたりの表情はよく見えない。ただ、ナギが真剣に話を聞いているのはわかった。何かを聞いたナギが手にしていた手ぬぐいを地面に叩きつけ、どこかへ行こうとし、リウに止められた。やがて、リウが両手をあわせて腰を折った。たぶん、東の国のおじぎなのだろう。リウは馬車に乗って去っていく。
「帰りましょう」
ナギが近づく。怖い顔をしている。
「ナギさん、ごめんなさい」
ユメリアは、その顔をまともに見られない。
「わたし、また迷惑をかけて」
ナギはひと言、「怖かったでしょう」とだけ言った。
「うん」と答えたら、ふたたび涙が落ちた。
「怖かった」
ユメリアは泣きじゃくりながらナギの手を取り、家路をたどった。
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