あなたを飢えさせるわけには
「はっ、はぁ、はぁ」
ナギの息が荒い。頬も紅潮している。ユメリアは、その額から濡らした布を取り上げる。布はすっかり温かくなっている。
――さっき乗せたばかりなのに。
たらいに入れた水に布をひたし、しぼって、またナギの額に戻す。
――どうしよう。
秋も近い午後の日差しが窓から差し込んでいる。この部屋の居心地がいちばんよくなる時間帯。ユメリアの不安はつのっていく。
振り返れば、朝起きたときから、ナギのようすはおかしかった。
「おはよう。ナギさん、顔、赤いよ?」
共同の炊事場で調理した
「平気です。顔を洗えば、冷えて落ち着きます」
理屈にならない言い訳をして、ナギがくみ置いた水で顔を洗い、テーブルにつく。あ
きらかに、呼吸がおかしい。はあ、はあと息をしている。
「熱があるんじゃない?」
ユメリアが額に手を当てようとすると、ナギはよけた。
「だいじょうぶですから」
そう言って、朝食に手をつけたものの、半分も食べられない。
「ごめんなさい。残してしまって」
あやまりつつ、ナギは「もう行かなきゃ」と席を立つ。玄関先でいってらっしゃい、と頬に口づけをしようとしたとき、ナギが体をふらつかせた。ドアによりかかったところを、ユメリアがなんとか支えた。
――ナギさん、熱い。
「ナギさん、だめだよ。すごい熱だよ。きょうはお休みにしよう」
「でも、稼いでおかないと」
ユメリアは唇をかむ。ふたりの生計は、ナギだけの肩にかかっている。ここの家賃だって、ナギの稼ぎを考えれば安くはない。
「これぐらい、なんてことは……。行かないと……」
そう言うものの、ナギは立ち上がることができなかった。
「休まなきゃだめだよ」
ユメリアの肩に寄りかかるようにしてナギは寝台までたどりつき、体を横たえた。
「お医者様に……」
「だいじょうぶです。すこし寝ればよくなります」
ユメリアが濡らした布を額に置くと、ナギは「気持ちいい」とうっすらと笑い、眠りに落ちる。ユメリアはそっと布をどけて、てのひらを当てる。
――熱い。どうしよう……。
ふたたび布を水で濡らし、苦し気なその呼吸を聞きながら、ユメリアは思った。
――ナギさん、すごく無理してる。
ナギはいつから体調が悪かったのだろう。昨日も、無理して仕事に行ったのではないか。ナギがもし、このまま倒れてしまったら。明日、体調が悪いまま、無理を押したら、そしてもっと具合が悪くなったら。ナギの寝顔を見ながら、ユメリアは不安と申し訳なさにさいなまれた。
ユメリアは肉屋で安い鶏ガラを買って炊事場で煮込み、チキンスープを作った。火にかけている間も、ときどきナギのようすを見に戻ったが、苦しそうなようすは変わらなかった。
夕方、目を覚ましたナギにスープを差し出す。
「これね、風邪にいいんだって。前に読んだ本に書いてあった」
「美味しい……。すこし疲れただけだから、すぐよくなりますよ」
ナギは笑顔でそう言ったが、夜半になると、また熱を出した。
「あなた、寝てないの……?」
夜中、目を覚ましたナギが朦朧とした目つきで尋ねた。
「わたしのことなんて気にしないで、ゆっくり休んで」
明け方、ユメリアは枕元に置いた椅子に座ったまま、知らず眠り込んだ。目が覚めると、ナギが仕事に出る時間だった。ナギは熱に浮かされながら、それでも起き上がろうとした。
「今日こそ、仕事に……」
「だめだよ。まだ起きちゃだめ」
ユメリアはナギの体を押さえつけるようにして、寝台へと戻す。
「あなたを飢えさせるわけには……」
額を濡れた布で冷やし、昨日と同じように、
――わたし、こんなことしかできない。
夜半になり、やっとナギの熱が下がった。ナギが安らかな寝息をたてていることにほっとする。ユメリアは明け方近く、そっと寝台に入った。
「もうすっかりよくなりました」
朝、眠い目をこするユメリアに、ナギはつとめてニコニコと言った。
「あなたが看病してくれたから」
「よかった」と言いつつ、ユメリアの表情は晴れない。
「夜、ずっと起きてくれていたでしょう。あなたが倒れないか、心配ですよ」
「わたしはだいじょうぶ。ナギさん、無理しないでね。きつくなったら、早引けさせてもらって」
ナギは「そうします」と即答した。ユメリアの不安はつのる。
「あのね、もし、暮らしがいまより苦しくなったら……。ふたりで考えよう」
ナギはすこし驚いた顔をし、そしてほほ笑んだ。
「あなたはそんなこと心配しないで。俺、がんばりますから」
――このままじゃいけない……。
扉の前でナギの背中を見送りながら、ユメリアは胸の前で、きゅっと右手を握った。
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