胸に満ちるものがあふれてしまう
朝、仕事に出かけるとき、ナギが言った。
「今日は夕飯、外で食べませんか」
「いいの?」
「今月、繁忙期だったから……。すこしだけ余裕があるんです」
七時に市庁舎前の広場で。約束した。
ユメリアは、少し早く家を出た。春前にリュートックへ出てきて、いまは夏。最近では、ひとりで買い物ぐらいはできるようになってきた。長い夕暮れのなかを、ゆっくり歩く。街の人たちも、短い夏のそぞろ歩きを楽しんでいる。市庁舎へ近づくにつれ、高級な商店が増える。ドレスがディスプレイされた仕立屋や宝石店。どれも自分には縁がなさそうな美しいものが並んでいる。目を奪われるけれど、ユメリアは思う。
――この服のほうが、どんなドレスよりすてき。
いま、ユメリアが身を包んでいるのは、半袖の簡素な綿のブラウスと、若草色のスカートだ。ナギが夏用にと古着を買ってくれた。サイズはすこしだけ自分で手直しをした。ウエストを詰めるのはあまり上手くいかなかったけれど、エプロンをつけると上手くごまかせた。家計にまったく余裕はないけれど、ナギは極力、ユメリアにきちんとしたかっこうをさせられるよう、心を砕いてくれていた。
「お屋敷で、あなたの服の袖はすりきれていたり、ちょっと短かったり。あんなみじめな思いはさせたくないんです」
夏服を買うことをしぶったユメリアに、ナギが言ったことがある。
――気づいてくれていたんだ。
「貸出」用のドレスを作るまえ、ユメリアがあのお屋敷で持っていたのは、アレクが気まぐれに買ってくれた二枚のよそゆきと、着古した洋服ばかりだった。きれいに長く着られるよう、手入れはしていたけれど、すり切れや丈の短さはごまかせなかった。
ロマノフスカヤの屋敷では、大奥様の遺言で、ユメリアは、月に一度、アレクの親族と食卓を囲むことになっていた。それはおそらく、ユメリアを妾の子と信じていた大奥様からの罰であり、復讐だった。ふだんはべつに暮らすアレクの弟や叔父叔母、いとこたちが集まる日曜の夕食。毎月最後の日曜は、その末席に座り、ひとりだけ違う料理を与えられ、妾の子とさげすまれながら食べた。「妾の子じゃないです」と反論して、ぶどう酒をかけられたことがあった。残飯を「恵んでやる」と押し付けられることもあった。アレクはユメリアが何を言われても、何をされていても、「ほどほどにしろよ」というだけで、かばってはくれなかった。
「わたしのお古、何年着てるの?」
アレクの従姉妹に見下した目で言われて、自分の服の出どころを知った。使用人にしてこき使うことなく、娼館に売ることもなく養ってやっているのだから、感謝しろ。皆からそう言われ、ユメリアはうつむいて耐えた。ほかに行くあてはなかったし、初恋のひと、アレクの妻になれる望みを捨てられなかった。今思うと、なぜあんなにアレクを慕っていたのか、不思議だけれど。
そんなことは、ナギはおそらく知らない。それでも、自分の境遇の一端に気づき、心を痛めてくれていたことは、ユメリアにとって救いだった。そして、ナギは、ふたりで街に出て、はじめてそれを口にした。あの境遇を抜けるすべもなく、屋敷で「袖がすり切れている」と同情されたら、みじめでいたたまれなくなっていただろう。
――ほんとうに、やさしいひと。
そんなナギが働いて、ユメリアにみじめな思いをさせまいと頑張って買ってくれた。だから、ユメリアはこの服が好きだった。どんなドレスよりもすてきだと感じられた。
市庁舎の広場は、リュートックの人々の憩いの場だった。おしゃべりをしたり、腰かけて屋台で買ったフィッシュ・アンド・チップスを食べたり、待ち合わせをしたり。皆、思い思いに時間を過ごしている。
待ち合わせまでまだすこし時間があったけれど、ナギはすでに、そのなかにいた。落ち着かない様子でうろうろと歩いている若い男の人がいる、と思ったら、それがナギだった。
――ナギさん、檻に入れられたクマみたい。
ユメリアは思わずほほえむ。声をかけると、ナギが振り向いた。やっぱりそわそわしている。
「早かったんだね」
ユメリアの問いかけに、そうですね、と答える様子も上の空だ。「どうしたの」と聞きかけたところで、ナギが意を決したようすで、「ユメリア」と名前を呼んだ。
「いっ、いままでちゃんと言えてなかったけど……。ユメリア、結婚してください」
ユメリアはことばに詰まった。胸に満ちるものがあふれてしまう。やっとのことで、「はい」と答えたら、笑いながら、涙がこぼれた。
ナギはホッとした顔をして、ポケットから、小さなびろうどの袋を取り出した。なかに入っていたのは、指輪だった。ナギにうながされて、ユメリアは左手を出す。馬車旅がよくなかったのか、薬指は少し曲がったままだ。そこにナギが指輪をはめた。
「ずっとずっと、一緒に暮らしましょう」
ユメリアはうなずき、ナギの手を握った。時計塔の鐘が鳴る。ただ時刻を告げる鐘が、ふたりにとっては前途を祝福するもののように感じられた。
プロポーズのあとは、ふたりで食堂に入って食事をした。ぶどう酒で乾杯して、少し奮発し、ローストビーフを食べた。ユメリアは夢見心地だった。
「ほんとうにうれしい」
ゲルバルドの屋敷にいるとき、ナギから「一緒に暮らしませんか」と言ってくれたこともある。そのうえで、あらためてきちんと「結婚してください」とことばにしてくれた。自分なんかに、あんな緊張した顔をして。
「ありがとう、ナギさん」
ナギもことばに詰まったようすで、「よかったです」と言った。
「それに、この指輪……」
ユメリアがそっと指輪にふれる。銀色のリングに、少し褪せたような、青色の小さな石がはめこまれている。
「その石が、あなたの瞳の色に似ていたから」
ナギが自分のことを思いながら選んでくれた。それが、なによりユメリアにはうれしい。それなのに、ナギの表情がふっと曇った。
「おもちゃみたいな指輪しか買えなくて、ごめんなさい。いつか、お金ができたら……」
「そんなこと言わないで」
ユメリアはかぶりをふった。
「俺はあなたにみじめな思いをさせたくないんです。それなのに……」
ナギがくやしそうな表情をした。ロマノフスカヤの屋敷で、ナギは、ときどき、こんな表情をしていた。ユメリアは思い出す。
「いつか、ちゃんとした宝石店で……」
ユメリアがさえぎった。
「わたし、ナギさんといてみじめになることなんてないと思う。一生懸命わたしのことを考えてくれているひとがそばにいるもの。わたし、幸せです」
そして、指輪をはめた薬指をそっと握る。
「わたし、この指輪が好き。どんな高価なものよりうれしい。大切にします」
「よかった……」
一方。彼女の輝くような表情を見た瞬間、ナギの胸に去来したものがあった。
――いつか、お屋敷でネリネの花を贈ったときよりも、ずっとずっと美しい。
その笑顔が、自分に向けられている。ナギは、すべてが報われたように感じられた。
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