不吉の足音

――何かが変だ。


冬の足音が聞こえるころ、少年は気がついた。

最初の兆候は、彼女が部屋を空けたことだ。

この年最後の秋咲のダリアを持っていたときのこと。

夕方、窓をたたいても返事がなかった。

気になって、夜、窓の外まで見に行ったが、灯りはともらない。

なかば幽閉状態にある彼女が、部屋を不在にする。

そのことに不安を覚えた。


――彼女はあの口ひげの男のところに嫁いだのだろうか?


少女と二度と会えないのではないか。

その予感に、呼吸が速くなる。

誰にも知られず、祝われず、家を出される。

彼女の境遇を考えれば、それはあり得ることのように思えた。


気温が下がりゆくこの季節、庭に花は少ない。

少年はダリアを水にさし、次の日、彼女の部屋の窓を叩いた。

窓の向こうに彼女が出てきたことに、ほっとしたのもつかの間――。

彼女が泣きはらした目をしていることに気がつく。

「あの、お花を……」

少女は表情を変えずに少年を見た。

「たぶん、今年最後のダリアです」

「お花……」

少女がつぶやいた。

「お嬢様……あの……」


――聞かなければ、聞かなければ。


心臓だけがドクンドクンと打ち、舌は思うように動いてくれない。

「ごめんなさい、いま、気分が悪くて」

少女が窓の向こうに消えた。

少年は茫然とたたずんだ。

我に返ったとき、その手のなかでダリアがしおれていた。


それ以来、花を届けても、少女はうれしそうにしなくなった。

部屋から出てきてくれても、口元だけで笑顔を作って、「ありがとう」とすぐに引っ込んでしまう。

引きとめて、「何かあったんですか?」と尋ねても、「なんでもない」とかわされる。

少年の心のざわつきは、日に日に大きくなった。


ある日、仕事中、時雨にあった。

思ったよりも雨足が強まり、車寄せに駆け込む。


――しまった。


誰かの気配に気づいて、柱の影に身を隠す。

屋敷の中で働くメイドや侍従以外、使用人は目につかないところにいるものだ、と師匠から教えられていた。

そっと様子をうかがう。

そこにいたのは、彼女だった。

白いブラウスに、茶色いスカート。

その上に、ショールを羽織っている。

腰周りはぴったりとして、裾が広がったスカートが、ほっそりとした彼女のシルエットをきれいに見せていた。


――あれも、この前買ってもらった洋服のひとつなのだろうか。


そのたたずまいを見ているうち、少年は彼女が小刻みに震えていることに気がついた。


――寒いのかもしれない。


彼女になら、ここで話しかけても大丈夫だろう。

「お嬢様」と声をかけると、少女が振り返る。

「庭師さん……」

かすれた声で応えた彼女は、青ざめていた。

そして、少年は気がついた。

首にあざがある。

まるで、何かで絞められたような。

少女はショールを羽織り直して、首元を隠した。

「ちょっと、怪我してしまって……」

「怪我って……」

心拍数が上がる。

だいたいこの人は、どうしてここにいるんだ。

に。

「……庭師さん……」

彼女は胸の前で手を握り、何かを言いかけた。

「た……」

彼女が何も言えないうちに、馬のいななきが近づく。

やがて裏口からアレクが現われると、彼女が苦しげな顔をした。

身を隠す時間はなかったが、アレクは少年を一瞥しただけで、気に留めていないようだった。

「行くぞ」

アレクが彼女の手首をつかみ、やってきた馬車へ乗り込む。

「はい……」

小さな声で答えて、彼女もそれにつづく。

少年は使用人の礼儀として、帽子を取り、ふたりを見送る。

嫌な、嫌な予感が胸の内にたちこめていった。

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