「たとえ彼から大事なものを奪ってしまっても」
門扉の向こうの男を、ユメリアは見上げた。
――このひとが、ボリスさん……。
年のころは、五十代だろうか。小太りで、灰色地にストライプが入ったチョッキ、揃いのズボンをサスペンダーで吊っている。えんじ色の幅が広いネクタイには、何か紋章をあしらったタイピン。その紋章が、門柱に刻まれたものと同じであることに、ユメリアは気がついた。
ボリスは、ぎょろりとした目で、ユメリアを見すえている。その隣には、黒いチョッキとズボンに身を包んだ付き人らしき男が控え、ユメリアに鋭い視線を投げかけている。ユメリアは、門番に告げたことを繰り返した。自分はナギの妻であり、夫のことでどうしても話したいことがある、と。
「お願いします。少しのお時間でいいんです」
ボリスはユメリアの顔をしばらく見てから言った。
「いいだろう」
ボリスと付き人に導かれて、ユメリアは庭を横切る。門扉を入ったところで、松が目に入った。
――あれが……。
冬の日、息を弾ませて、「松の世話ができる」と喜んでいたナギ。それは遠い過去のようだった。
玄関前に控えた男が、重厚な木の扉を開けた。扉の内側が鉄で補強されているのが見える。ユメリアは一瞬、ためらったのちに、中に入った。
――ここが、ナギさんの職場……。
高価そうな絨毯が敷かれた廊下を進む。邸宅内は、アレクの屋敷とは違った重苦しさに満ちている。通された応接室は、一面に大きな窓が開け、よく庭が見渡せた。
――ナギさんがお世話しているのかな……。
そう考えて、ユメリアは「ほんとうに?」と自問自答する。やはり、たしかめなければならない。
「で、話ってなんだ」
対面の礼を口にしてから、ユメリアは尋ねた。
「夫は……ナギは、こちらで庭師として働いているんでしょうか」
ボリスは太い指を組んで、ユメリアを見た。
「あんた、それを聞きに来たのか」
ユメリアは胸の前で手を握る。思い切って、ボリスの目を見据えて言った。
「夫に悪い仕事をさせているなら、やめさせてください」
ハン、とボリスが笑いを漏らした。
「悪い仕事、ね。あんた、わたしらを前にして、よく言うな」
「……失礼いたしました」
ユメリアは、手が震えるのを感じる。でも、ここで引き下がるわけにはいかない。
「礼を失したことは謝ります。でも、ナギさんを……夫を巻き込まないで」
応接室を沈黙が支配する。
「あんたの旦那が自分の意志で、望んでその“悪い仕事”とやらをやっていたら、どうする」
「夫は悪いことをするような人間ではありません」
ユメリアは即座に返した。
「それと、この屋敷で何をやっているかは、旦那本人に聞くべきことじゃないのか」
ユメリアはうつむいた。
「……聞きました。ただ、夫は庭師をやっていると」
「旦那が信じられないってか」
「信じています。でも、様子がおかしいんです。この前も、家に帰るなり吐いて……」
「なるほどね、それでここでおかしなことを強要されているんじゃないか、と」
ユメリアはうなずいた。
「わたし、夫には苦労をかけています。だから、これ以上は無理をさせたくないんです……」
ボリスは胸元からケースを取り出し、葉巻を巻いた。毛むくじゃらの太く短い指で紙を巻き、それが終わると付き人がサッと火をつける。ユメリアはその一連を、別世界のもののように見ていた。ボリスは一服すると言った。
「まず、あんたの最初の質問に答えよう」
煙を吐き出す。
「あんたの旦那のナギ君は、うちで庭師として働いている。なかなか腕がいい」
ボリスが葉巻を挟んだ手を、窓のほうへ向け、庭をさした。
「これで、満足か?」
黙り込むユメリアに、ボリスが言った。
「なあ、奥さん」
また一服。
「仮に、仮にだ。あんたの旦那がここで『悪い仕事』をしていたとして」
ユメリアが眉を寄せてボリスを見る。
「それはなんのためなのか」
煙で、ボリスの表情がよく見えない。
「あんたが何に守られて、安穏と生きていられるのか」
煙が流れていく。ボリスが、静かなまなざしでユメリアを見ていた。
「考えてみてもいいんじゃないのか」
会談はそこで終わった。
ボリスの屋敷の敷地を出るまではこらえた。一歩、門を出たら、涙が止まらなくなった。
「ナギさん、ナギさん」
その名を呼んで、しゃくりあげる。道行く人に見られるのが嫌で、途中、人気がない路地にしゃがみ込んで泣いた。
――ナギさんは、わたしのために、何を。
何をしているかは、わからない。ボリス邸の庭を任されているのもたぶん、嘘じゃない。でも、ナギはボリスのもとで、ユメリアの知らない仕事もしている。そしてそれは、おそらく――ユメリアのために選択したことだ。
――わたし、やっぱり、ナギさんの人生をめちゃくちゃにしてしまった。
それでも、もう、ユメリアはスミスに殺されていればよかった、とは思えなかった。家を出て、ナギと離れて生きていこう、とも思えなかった。
――ずっとナギさんといっしょにいたい。ずっとずっといっしょにいたい。
たとえ彼から大事なものを奪っても、人生をめちゃくちゃにしてしまっても。彼が、いっしょにいたいと望んでくれるなら。
――でも、そのために、ナギさんは……。これからも……。
ユメリアは泣いた。やがて日がかたむき、夕刻、その奥に桃色のカンテラがともり、妖しい光を放ちはじめるまで、そこから動かず、泣いた。
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