衝突

 その日、取り立てを終えたナギは、街の事務所へ立ち寄った。成果はかんばしくない。債務者が「幼い子どもがいるんです」と涙ながらに同情を引いたかと思えばそれが嘘だったり、逆に「出ていけ!」と恫喝されたり、とにかく疲れた。

 ナギは組織になじめなかった。ときに脅すことも必要な――というか、なめられたら終わりのはずが、なめられっぱなしの取り立て。すぐにメンツだ金だと喧嘩を始める構成員たち。唯一、庭仕事をしているときは気が休まった。きょうも余力があれば、ボリスの邸宅まで戻って庭仕事をしようと思っていたが、とても無理だ。構成員が使う殺風景な事務室を出ようとしたとき。

「ナギ、お前、ボリスさんとこへ寄れ。呼ばれてるってよ」

 すれ違った男から声をかけられた。


――あまりに使えないから、お払い箱にされるんだろうか。そしたら、俺も埋められるのか。

 それはそれで、いいのかもしれない。捨て鉢な気持ちで、邸宅の重々しい門をくぐり、応接室へ通された。整った庭が、ひらけた窓から一幅の絵のように見える。めったに入ることはないが、ナギはそれを見るのが好きだった。

「呼びつけて悪かったな」

側近をともなったボリスが部屋へ入り、ナギの前に座る。

「おまえ、嫁さんに自分の仕事、話してないのか」

「え……」

ナギは返答に詰まった。

「夫に何させてんだって聞かれたよ」

「妻が……?」

「今日、ここへ来た」

ナギは足元から力が抜けそうになる。彼女を守りたい、そして、彼女をぜったいにこの世界には近づけたくない。そのためにがんばっているのに。

「あのひとは」

顔をしかめたナギに、ボリスは言った。

「お前の嫁さん、どっかのお嬢さんなんだろ」

ボリスには、だいたいの事情は話してある。

「そんな嫁さんが、この屋敷へひとりで来たんだ。ちょっとはくんでやれ」

ナギは想像した。あの高い鉄柵がそびえる門の前にたたずむ彼女。この邸宅内を歩く彼女。あのひとが、どうやってボリスに取り次ぎを頼み、どんなふうに話したんだろう。

「それで何と言ったと思う。『わたし、夫には苦労をかけてます、だから、無理させなくない』だとよ」

ナギは、何を言えばいいのか、何と思えばいいのかわからなかった。

「お前のことは庭師で腕がいい、とだけ言っておいた」

「申し訳ありません……」

「いいから」と、ボリスは謝るナギを制した。

「とにかくきょうは嫁さんと話し合え」


 家に帰る気になれない。ナギはめずらしくひとりで酒場に立ち寄り、酒をあおった。彼女が自分を案じていることはありがたい、と思う。ただ、それは頭で考えたこと。気持ちのうえでは、こちらの世界に彼女が触れることへの嫌悪が先に立った。

 自分の意思ではないものに、翻弄されて生きてきた彼女。冷遇されて育ち、それでもなお、行き倒れにりんごを差し出した彼女。そのひとに、今度こそ、暴力のない場所で生きてほしかった。

――じゃないと、あなたを連れて逃げた意味がないんだよ。

だから、だまっていてほしい。

 帰りたくない、このまま酔いつぶれてしまいたい。でも、あのフラットで、ひとりぽつんと待っているユメリアの姿が浮かぶ。

――そんな表情をさせたいわけじゃない。

完全に安全な場所で、笑っていてほしい。それだけなのに。


 ふらつく足取りで家に帰る。「おかえりなさい」と出迎えたユメリアの目が赤く腫れている。食卓には、スープとパン。

「きょうね、街へ出たら、いい牡蠣が売っていたから。作っちゃった」

石炭代はちょっと痛いけど、とユメリアは笑った。具材が牡蠣なのは、ナギがさいきん、肉を避けているからだろう。その心づかいと自分の酒臭さ。コントラストに、気が重くなる。

「お酒、飲んできたんだね」

食事、無理して食べなくていいからね、とユメリアがまた笑顔をつくる。

――ちがう。

俺は、こんなつくり笑いをさせたかったわけじゃない。何かもっと、言うべきことがあるはずだ。それなのに、食卓につくと、ナギは尋ねていた。

「あなた、きょう、ボリスさんのところへ行ったの?」

ユメリアはからだをびくっと震わせ、「ごめんなさい」とあやまった。胸の前で、てのひらをぎゅっと握っている。お屋敷での少年時代、何度、この仕草をさせたくないと思ったことだろう。

「どうしても、ナギさんのお仕事が気になって」

こんなこと言わせたいわけじゃない。

「でもね、聞いて、ナギさん」

訴えかけようとした彼女をさえぎった。

「もう、いいです」

――ちがう。

なにかが止まらない。まちがえている、と思う一方、自暴自棄な気持ちがふくらんでいく。ナギは立ち上がり、ユメリアの手を引っ張る。

「どうにもならないですよ」

「ナギさん……」

 戸惑う彼女を寝台に押し倒す。

――ちがう。

この間、はじめてユメリアを抱いた。「怖かったら、すぐやめます」と言って、彼女にふれた。事後、彼女のしあわせそうな顔を見て、生きていてよかったと思った。それなのに、いまは……。

「ナギさん、やめて……」

か細い声。屋敷で再会した日、納屋のなかから、彼女のこんな声を聞いた。

「……俺もすぐいきます。だから」

白い首に、指が食い込んでいる。

「……つっ」

突然、目の下に鋭い痛みを感じた。ユメリアの爪が、自分の顔をかすめたのだと気づいたのはあとのことだった。

「やだっ」

次に、何かがはげしく顔をたたく。跳ね起きたユメリアが枕でナギをたたいている。ふざけているときと違って、勢いをつけて、何度も。ひとしきり叩くと、ユメリアがナギを見すえた。

「なんで、なんで、そんなことするの」

灰青色の瞳から、涙が落ちる。

「なんで」

また枕で叩く。

「わたしのこと、いらないから、気に入らないから、殺すの?」

ナギは腕で頭をかばう。

「そんなのアレク様とおんなじじゃない」

「ちがいます、俺も、すぐに、あなたのあとを」

腕を下ろし、彼女を見る。

「ちがわないよ」

また枕が飛んで、頬を打つ。

「ナギさん、わたしのこと、モノじゃないって言ってくれた」

それなのに、と彼女が泣いている。

「なんにも話してくれないで。こんなの、ひどい、ひどい」

両手で枕をつかんだまま、細い肩がはげしく上下している。

「あとを追うなんて……。ナギさんが死んでいい、なんて、そんなわけないじゃない」

「ユメリア……」

「ナ、ナギさんが苦しんでるの、知ってるもの。わたしだっていやだよ」

また枕をぶつける。

「わたし、死にたくない。ナギさんともっともっと、いっしょにいたい、ずっといたい」

涙でぐしゃぐしゃになった彼女に手を伸ばすと、ユメリアがまた枕を振り回した。

「ナギさんなんてきらい、きらい、きらい。いっしょにいたいけど、きらい。出てって」

「ユメリア、聞いてください、俺は……」

ユメリアはかまわず、ナギを寝台から押し出した。そのあとも押して押して、ついに玄関から押し出した。

「ユメリ……」

ナギの目の前で、扉が閉められた。

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