この世に神殿はなく1
ナギは夜の街をふらつきながら歩いた。娼婦の声かけを断り、色街を抜けると、かぎ慣れない香辛料のにおいが鼻をつく。商店や料理屋の看板は、読めない文字ばかりだ。ときおり、同じ肌の色の男女から声をかけられるが、ナギにはそのことばが理解できず、けげんな顔をされる。これが嫌だから、このあたりにひとりで来ることはない。そう、仕事か、あの男と一緒でもない限りは。
輸入食材の商社だとかいう、古ぼけた事務所の2階を訪れる。飾り気のない扉をノックする。
「おう、どうしたよ」
上半身裸のリウが姿をのぞかせ、とくに驚くでもなく応じた。
「ちょっと……」
ナギが言いあぐねていると、リウが「待ってな」と部屋の奥へ引っ込んだ。「せっかく会えたのにぃ」「わたしもいっしょに話を聞くー」「よく話してる子でしょ。なんだっけ、植物バカだっけ、
「すみません、俺、やっぱり……」
辞去しようとするナギの腕を、女がぐいっとつかんだ。口紅に彩られたぽってりとした唇を、ナギの耳もとに寄せる。
「ゆずってやんだから、ありがたく思いな」
「……すみません」
あやまるナギを突き放すと、「じゃ、また。これ、高くつくから」とリウに手を振り、女が帰っていく。
「入れよ」
リウにうながされる。借金の取り立てでリウとたまたま組んだとき、住みかを教えられていたものの、入るのははじめてだった。入り口正面の扉を開けると、木箱が積まれた細長い部屋に、テーブルともいえないような台と、椅子がわりの木樽がふたつ。もともとは、下の商社の倉庫か何かなのだろう。
「座って待っててくれ」
リウが酒瓶とゴブレットを持って戻る。
「いや、俺は……」
ナギが断ると、リウは自分のぶんだけついで、あおった。ジンの強い香りがたつ。
「で?」
もう一杯をゴブレットにつぎながら、リウがうながす。
「ちょっと、夫婦げんかをして……」
「はあ?」
リウは一瞬あきれたような顔をしたが、しばらくナギの顔をとくとくと見て、それ以上は何も言わなかった。
「ちょっと、言い合いになって、追い出されて……」
リウが額に指を当てた。
「それじゃぜんぜんわかんねえ。順を追って話してくれ。今日、お前がなんかして、嫁さんが怒ったとかあんだろ」
ナギはぼんやりとした頭で考える。そうだ、ユメリアがきょう、ボリスさんのところへ……。
「きょう、あのひと……妻が、ボリスさんに会って……」
ナギはぽつりぽつりと話した。途中、リウがさえぎった。
「えーと……。お前、仕事のこと、嫁さんに話してないのかよ」
ナギはうなずく。
「工場やめたのに?」
「ボリスさんところで働くとは言ってある。庭師するって……」
気まずそうに付け足す。
「それだって、ウソじゃない」
「仕事行く時間だって、まちまちだろ」
「朝、早く出て、時間つぶしてる」
「てことは、おどされたことも言ってないのか?」
「……言えない」
リウが信じれないものを見る目でナギを見たあと、それでも「で?」とつづきをうながした。ナギが今夜のできごとをひととおり話すと、リウがいよいよあきれた顔をした。
「ええー……お前……それは……なかなか……いや、女の首絞めたって……最低じゃないのか……」
言い返せないな、とナギは思う。
「思い詰めると危ねえタイプだとは思ってたけどよ……」
リウは気まずそうに酒をあおり、「言い過ぎた」と言った。
「お前、早く帰れ」
木樽から追い立てるようにして、ナギを立ち上がらせる。
「俺と話してる場合じゃねえだろ。いますぐ帰ってあやまれ。とにかくあやまれ。で、ぜんぶ話せ。もう無理だろ。てか、はじめっからバレてるだろ」
扉を閉める前、リウは言った。
「なんつうか……お前、もうちょっとひとと話したほうがいいぞ。ふだんから。嫁さんとか、あと、組織の奴らとも」
「何を……」
「知らねえ、天気の話でもしとけ。じゃあな」
ナギの目の前で、扉が閉められた。
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