この世に神殿はなく2

 家へ帰ると、ユメリアは寝台でからだを丸めていた。ナギが近づくと、ふとんをまきつけて背を向ける。ナギは寝台のはしに腰かける。

「……ごめんなさい」

ナギの謝罪に、すぐに答えはなく、ちいさなすすり泣きだけが、闇にとけては消える。

「こっちこそ、追い出してごめんなさい」

いったんことばを切って、ユメリアがつづけた。

「でも、ナギさんがさっきしたこと、ひどいと思う」

とってもひどい、と繰り返す。

「……ごめんなさい」

ちいさな背中に手を伸ばす。

「あやまって、すむことじゃないとは思いますけれど」

ふとんごしに、彼女のあたたかさと呼吸を感じる。荒れていた気持ちが、静かになった。手を離し、床に目を落とす。


「俺、おどされてたんです」


 ナギは話した。オリバーの脅迫、金かユメリアかを差し出せと言われたこと。迷ったけれど、オリバーに金を渡しに行ったあの夜のことも。


 いつの間にか、背中に、あたたかいものを感じる。体温だけではない、しめったもの。ユメリアがしゃくりあげながら、ナギを背中から抱きしめている。


 故郷で勤め口が決まっていたことも、口をついて出た。だれにも話すつもりはなかったのに。

「俺に親がいたら。みんなと同じ見た目だったら。こんな目にあわずにもすんだのかな」

 言ったって何も変わらないから。胸に浮かぶたびに、かたはしから放り投げて、見ないことにしてきた。ちいさいころからずっと。

 ナギを抱く腕に、ぎゅっと力が入る。

「ひどい、ひどすぎる……。オリバーさん、どうしてそんなことができるの」

 背中ごしに振り返る。銀色の髪が、肩が、小刻みに震えている。

――でも、俺にはこのひとがいる。

 自分の胸のあたりに回された白い手をにぎる。

――リウやゲルバルドさん、たぶん、ボリスさんや、ジュディさんも。


 ナギはつづけた。リウの機転でボリスのもとで働くことになり……。

「いまは、庭師のほかに、チンピラみたいなことしてる。借金取り立てたり」

「ナギさん、ナギさん……」

 くぐもった声が発せられるたび、背中に彼女の呼気を感じる。ナギはからだの向きを変え、ユメリアを腕に抱いた。

 しばらくしゃくりあげてから、ユメリアが尋ねた。

「でも、どうして、話してくれなかったの……」

 涙をためた灰青色の瞳が、ナギを見る。どうしてだろう、ナギは思う。そうだ、俺は彼女に、安全なところで、笑って生きていてほしくて……。そう思ったら胸が痛んで、その夢がついえたことを思い知った。

「あなた、ずっとこわい思いをして生きてきたから。今度こそ、安心して暮らしてほしかった」

「安心……。ナギさんが警察に追われてるのに?」

「俺はいいんです。自分がやったことだから」

「わたしたち、共犯じゃないの……?」

それは、ナギにとって思いがけないことばだった。

「スミス……あの貴族のひとを殺したことも、オリバーさんを殺したことも」

「殺したのは俺です」

「でも、ナギさんはわたしを守るためにそうしてくれた。それに、わたし、もし、手助けできたなら……。きっとしていたと思う」

「俺がそんなこと、させません」

「……ナギさんはわたしを、共犯者にはしてくれないの?」

「あなたにはなにも背負わせたくないんです。完璧に安全な場所で、ずっと笑っていてほしい」

大きな灰青色の瞳、ランプの灯りにわずかに煌めいている銀色の髪、細い肩。でも、美しいのはそれだけじゃなくて……。

「俺にとって、あなたは女神だから」

 だから、ふさわしい場をつくりたかった。

 ユメリアがしばらくナギの顔を見て、そしてかなしげに笑って、首をふった。

「うれしいけど。わたしは女神じゃないし、ぜったいに安全な場所なんてないよ。どこにも」

ナギは目をそらした。

「でも、ナギさんがいるよ。ナギさんのとなりは、安心できるよ」

腕の中で、彼女が目を閉じて言う。

「俺は、あんなことをしたのに……?」

ユメリアがすこし考えた。

「あれは……。ひどいと思うし、ゆるせないって思う……けど……」

ユメリアが、ナギのほおにふれる。

「ナギさん、とっても苦しそうだった」

――このひとは……。

「だから、もう、いいの」

ナギはおのがほおにふれた彼女の手を握った。

「ありがとう……」


――でも、だからこそ。


 ナギは心に決めて、たずねる。

「ひとつ、聞いておきたいんです」

 ユメリアが、突然の問いかけに小首をかしげた。

「オリバーがここへ来たことがあったでしょう。あのとき、あなたがからだを差し出せば、俺を助けてやるって言われたら、どうしました?」

オリバーがそうした可能性はじゅうぶんにあったと、ナギは思う。

「言うことをきく」

ユメリアは即答した。

「あいつだけじゃなくて、いずれほかの男にからだを売らされます」

「平気。ナギさんが殺されちゃうより、ずっといいもの」

このひとらしい答えだな、とナギは思う。でも、これではいけない。

「俺はいやです。あなたがそんな目にあうなら、縛り首になったほうがマシです。それに。あなたが言うことをきいていても、俺は殺されます。きっと、いずれ」

「そんな……」

「俺がいないほうが、都合がいいでしょう。そのうえで、あなたは逃げられない場所で、もっとひどいことをされる」

ナギはため息をつく。

「そうやって、いずれは俺たち、いっしょにいられなくなります」

ナギはユメリアの目を見た。

「だから。共犯だって言うなら。あなたも言って。おどされたら。怖い目にあったら。勝手に言いなりにならないで」

「うー」とユメリアが、うなるような声を出し、不服そうな表情をした。

「じゃあ、ナギさんは? 何かあったら、言ってくれるの?」 

しばらく彼女と目を合わせて黙り、ナギはうなずいた。

「言います。次は」

「相談してくれる? 勝手に決めない?」

「必ず」

「じゃあ、わたしも約束する。黙って誰かの言いなりにならない」

「約束です」

「約束」

ふたりはどちらともなく、額を合わせて誓い合った。

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