番外編 泥にまみれても、なお1
最初、そのふたりを見たとき、ジュディは思った。
――どう見ても、ワケありだね。
東洋系のやせた男と、銀に近い髪色の、育ちがよさそうな女。まず、この組み合わせが妙だ。どちらも若い。男は見るからに落ち着かなげに視線をそらし、脱いだ帽子を握りしめてふるえている。
きっと何軒も断られたのだろう。それもむべなるかな。大家として何より避けたいのは、トラブルだ。そのへんの平凡な工場づとめの夫婦でも、兄弟姉妹同士でも、なんでもいい。ありふれた部屋の借り手なら、いくらでもいる。おかしな
第一、田舎から出てきて金がないなら、まずは木賃宿だろう。寝台ひとつを共有するか、それもむずかしいなら、からだを「く」の字にし、ひもにぶら下がって睡眠を取るぶら下がり宿だってある。仕事も決まっていないのに、フラットを借りに来る。その世間知らずさが、ジュディに告げる。「こいつらに部屋を貸してはいけない」。
そんなわけで、さっさと断ろうと思ったとき、後ろにひかえていた女が言った。
「わたしたち、貴族の紹介状も持っているんです」
――そんな話を持ち出すこと自体が、世間知らずだって、吹聴してるようなもんさ。駆け落ちだろうか。
なおも女は食い下がるようすを見せた。困ったな、とジュディは思った。すごすごと引き下がって、木賃宿にでもいってくれると助かるのだが。
「ゲルバルド様、という方なんです」
「ゲルバルド様……?」
女が、予想外の名前を口にした。そのとき、ジュディの脳裏にあの涼やかな声がよみがえった。
「ご無事で何よりです」
泥にまみれてもなお高貴だったその顔。アイリス・ゲルバルドはジュディの命の恩人だった。
さかのぼること、七年余り。ジュディは、荒天のただ中で、両足をなんとかふんばり、細いハリエニシダの枝を引っ張っていた。雨が顔じゅうを叩き、まともに目も開けられない。目の前には、くずれた斜面。それほど急ではないのだが、地滑りを起こし、蟻地獄状になって、下の濁流へとジュディをいざなう。ジュディが握りしめる枝の先には、ひとりの男。
「あんた! もうすこし、もうすこしだよ! しっかりすんだよ!」
ジュディは声を張り上げる。
「ジュディ……」
さっきまで必死の形相をしていた夫が、いまではただ青ざめている。細いハリエニシダの枝は、いまにも切れそうだ。そもそも、成人男性ひとりを支えられるようなしろものではない。ジュディ自身、限界を感じはじめていた。
ジュディの夫――ミッチの兄に不幸があり、ふたりがロバにひかせた荷車を出したのは、今朝のこと。朝からあやしかった天候は夕方になって大きく崩れ、無理をして進むうち、この地滑りにあった。荷車とロバはとっくに斜面の下を流れる川に落ちている。
「ジュディ、もういい、お前まで落ちちまう……」
「なに弱気になってんだい!」
そのとき、雨音を縫うように、女の声がした。
「もうすこしですから。がんばってください」
いつのまにか、マントをはためかせ、ひとりの女がジュディの後ろに立っていた。風が吹き、フードから一瞬、その白い横顔が見えた。まだ年若い少女。
少女が後ろに向かって声を張り上げた。
「ジャニス、そっちはだいじょうぶ?」
「だいじょうぶです、お嬢様」
「失礼します」
少女はジュディの腰に縄を巻き付け、きつく結わえた。
「あの木が、見えますか?」
少女が後方、斜面の上を指さした。大きな木があり、その隣に男が立っている。
「これから、この縄を、あの木に固定します。あの木はしっかりしているから、だいじょうぶ」
説明して、少女は「ジャニス!」と合図して、斜面の上側に縄を投げる。ジャニスが駆け寄ってそれを受け止めた。ほどなく、縄がぐん、と張る感覚があった。ジャニス、と呼ばれた男が、縄を木に結んだのだろう。
「アイリスお嬢様!」
次いで、斜面の上から、ジャニスが呼びかけ、別の縄を投げる。それを受け取り、アイリスがミッチに向かい、声を張った。
「今から縄を投げます。それをつかんでください!」
ハリエニシダを放し、投げられた縄をミッチがつかむ。
「引っ張り上げますから、もう少しがんばって!」
ミッチが眉間にしわを寄せ、縄をつかむ。だが、腕力も限界だ。
「あんたぁ」
ジュディが半泣きの声を出す。
「何をしている!」
いかめしい声がして、ひとりの男が斜面を駆け下りてきた。やはり、雨除けのマントをはためかせている。
「お父様!」
アイリスの安堵した声とは対照的に、男の声は怒気をふくんでいる。
「アイリス、お前、何を……! ジャニスまで」
「雨宿りをしていたら、この方たちが、斜面に……」
男は瞬時に状況を理解したようで、説教を中断した。「もうすこし、がんばれますか」とジュディとミッチ両方に声をかけ、まず、アイリスを斜面の上に引っ張り上げた。
そのあと、自らのからだに縄を巻いて木に結わえ、ミッチのところまで注意深く降りた。男はミッチの腰を抱くようにして、斜面をともに上った。ジュディに並ぶあたりまで来ると、男はミッチを自らのからだにつかまらせ、縄を離させた。雨のなか、顔をしかめながら、男はその縄をミッチのからだに巻いた。
「もういいぞ!」
男のかけ声を合図に、「いーち、にー、さーん、しー」と、声を合わせてジャニスとアイリスが縄を引く。ミッチ自身も足を動かし、その力を借りて、斜面をのぼった。ミッチが斜面の上に達すると、男は今度はジュディに肩をかした。また、「いーち、にー、さーん……」と声が響き、ジュディを引っ張り上げた。
斜面のうえで泥まみれの夫婦が抱き合い、「ありがてえ……」「ありがとう」と口にする。
「ご無事で何よりです」
ほおや鼻に泥をつけたまま、アイリスが笑った。フードはすっかりはだけて、栗色の髪はずぶ濡れだが、気にかける様子はない。
「荷車が……」
斜面の下を見やりながらミッチがつぶやくと、少女が気の毒そうな顔をした。
「お気の毒に……」
「ロバも……もうダメだろうな」
少女の父も、いかめしい顔に同情を浮かべて口にした。
「お父様、とりあえず、今夜はうちに来ていただいたら……?」
アイリスが父を見上げて提案する。
「それでよろしいかな?」
「え……いいんですか……」
夫婦は顔を見合わせた。男はどう見ても貴族だ。
「もちろんです!」
父の返事を待たず、少女が明るく言い放つと、父親はふう、とため息をついた。
それが、ジュディとゲルバルド親子との出会いだった。
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