番外編 泥にまみれても、なお2

 夕刻、光とぼしい森を、ジュディ夫婦は命の恩人らとともに、歩いていた。

「アイリス、なぜあんな危ないことを……。まず、わたしを呼びなさい」

ジョシュア・ゲルバルドと名乗った父親は、道々、娘のアイリスに説教をした。彼の持つカンテラの光が、小ぶりになった雨の向こうにぼんやりと見える。ゲルバルド親子とジャニスの三人は馬に乗ろうとせず、夫婦とともに歩いている。

「だって、一刻をあらそったのよ」

「それでみんな落ちてしまったらどうするんだ。ジャニス、お前もだ。お前に何かあったらどうする。ご両親にとても顔向けができない」

 次は、ジャニスに矛先が向いた。

「申し訳ありません、ゲルバルド様……」

ジャニスという若い男はことばづかいや身なりから領民だと察せられた。叱られると、心底申し訳なさそうにあやまった。

「もうっ、いいじゃない、父様。みんな無事なんだから」

ゲルバルドが長い溜息をついた。

「アイリスはこのとおりだ。ジャニス、お前がしっかり見ていてくれないと困る」

「あっ、は、はいっ」

ジャニスが背筋を正した。

「あ、ありがとうございます」

ジュディは、フードごしの横顔、青年の瞳によろこびが満ちるのを見た。


 連れていかれたのは、城塞のような貴族の屋敷だった。

「まったく、アイリス様はおてんばですこと。お嬢様に何かあったら、亡くなった奥様になんと詫びればいいのか」

「悪かったわよ、マデリン」

「しっかり見張っておくべきでしたね」

帰ってからも、アイリスはメイドにさんざん説教されていた。

「いま、部屋をご用意しますから、ここでお待ちになって」

やっと顔から泥を落としたアイリスは、屋敷の北にある塔、その一階の食堂へと、夫婦を案内した。「これ、お使いになってね」と、みずから清潔な布や、着替えを運んでくれた。やがてアイリスが去ると、メイドが「たいへんでしたね」と、紅茶を運んで来た。あたたかい飲みものが、心底ありがたかった。

 

 ひと心地つき、かわやを探しに北塔の裏口にさしかかったジュディは、くすくす笑いを聞いた。そっと足を止める。

「マデリンにもいっぱいお説教されちゃった」

「お嬢様、無理なさるから……。俺も、うかつでした」

「ジャニス、ふたりきりのときは、アイリスって呼ぶ約束でしょう」

しばらくの沈黙。

「ここでは、悪い気がして」

「誰に?」

「ゲルバルド様に。ここは、お屋敷だから。けじめっていうか。いつか、ちゃんととお許しをいただいたら……」

「そうね……」

長く伸びた影がふたつ、重なった。

「お父様も、きっと考えてくださってる」

「きょうも、俺のことまで心配してくださった。それに、しっかりしろって……」

「ふふっ、けじめなんて言って、こんなふうに抱き合うのはいいの?」

「あっ」

「ちょっとからかっただけよ」

ふたたび、衣擦れの音がした。

「離さないで」

「けして」

やがて、戸口が開けられる音がした。

「ジャニス、きょうはほんとうにありがとう。あなたのおかげで、あのひとたちを助けられました」

「どういたしまして。じゃあ、また、森で」

「森で」


 結局、ジュディ夫婦は次の日、これもまたゲルバルドのはからいで、北の寒村へ行く荷車に乗せてもらい、なんとかミッチの兄の葬儀へ駆けつけることができた。

「こんなにしてもらって、どうしたらいいのか」

身をちぢめて礼を言う夫婦に、アイリスは別れ際に言った。

「どうか、お気になさらないで。そのかわり……困った人がいたら、今度はあなたたちが、同じように助けてあげてください」

 昨晩の嵐が嘘のように晴れ上がった空。少女は、同じぐらい晴れやかでさわやかな笑顔を見せ、父の横で、手をふった。


 その後、大きな飢饉があって、ジュディ夫婦は親族を頼り、リュートックへ出た。それから間もなく、ミッチの兄嫁からの便りで、アイリスがとても残念なことになり、ジャニスも後を追った、と知った。

「あのひとたちが……」

ジュディはミッチとともに、涙した。街へ出てから生まれた末っ子が、きょとんとした顔で、父母を見た。

「あのひとたちがいなかったら、あんただって生まれてない」

 ジャニス、と名づけた我が子を、夫婦は抱きしめて、また泣いた。


 そして、いま――。目の前の訳アリらしい若い男女が、ゲルバルドの名前を口にした。


――困ったひと、かね。これが。


「いいよ」


 ジュディは考えるより先に、部屋を貸してやる、と言っていた。


 ジュディがその判断を間違えていなかったと知るのは、もうすこしあとのこと。行商でリュートックへやって来たミッチの甥が、「変態貴族殺し」の噂を興奮気味に語るまで、待たねばならなかった。

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