俺と暮らしませんか、ずっと一緒に

「君たち、少し歩いたほうがいいよ、リハビリだよ、リハビリ」


 ある日、医師が言った。


「ゲルバルドさんには僕のほうから言っておくから、明日は少し、湖でも見てきなさい。屋敷の裏の道を下るだけで着くよ。2時間もかからない。けっこうきれいだよ」


 次の日の朝、マデリンが「お散歩に行かれるのでしたら」と、バスケットと敷物を持ってきた。バスケットには、パンやチーズが入っていた。


「あの、でも、俺たち……」


「今日は村で祭りがあります。あのあたりに、まず人は来ません」


 マデリンはいつも通り表情を変えず、バスケットと敷物をナギに押し付けるように差し出した。

 ふたりは礼を言い、湖を目指して歩きはじめた。冬にしては、よく晴れた日だった。ロマノフスカヤ家から落ちのびたあの日以来、ひさびさの外気を、ナギは楽しんだ。


「速かったら、言ってくださいね」


 ナギがユメリアを気づかうと、「ありがとう」とちいさな声で答えが返ってきた。


「空がきれいですね」


「ええ」


「空気、澄んでますね」

 

「そうだね」


 少女はうつむきがちに、どこか上の空で答える。最近、元気がないことは知っている。でも、これはあまりに――。少年が戸惑っているうちに、木々が尽き、湖面が見える。


「わあ……」


 ふたりは声を揃えた。小高くなっている場所を見つけ、ふたりは布を敷いて腰を下ろした。よく晴れた空を映した湖の、さわやかな青色。しばらく、ふたりで湖面を吹き渡る風を楽しむ。ユメリアの銀灰色の髪がそよぎ、きらきらと光った。


「わたし、ナギさんがいなかったら、こんなにきれいなもの、見られなかったな」


ユメリアが湖面のずっと向こうを見て言った。


「ありがとう」


 ナギはその表情に、見覚えがあった。以前、お屋敷で、ゼラニウムの名前がわかってよかった、と言ったときの顔。屋敷から一緒に逃げようと言った夜、「わたしのことは忘れて」と拒んだときの顔。何かをあきらめようとしているときの顔。


「どうしたんですか?」


「なんでもない。お昼、食べよう」


 気づまりなまま、ふたりでパンを食べた。ユメリアはパンをひとつ手に取ったまま、ほとんど口をつけず、ぼんやりと湖を眺めていた。

 鳥の声だけが聞こえる、静かな時間。ナギは思い切って切り出した。


「あの、ユメリア……さん」


 一度、きちんと言いたかったこと。


「ここを出たら、俺と暮らしませんか。ずっと、一緒に」


 ユメリアが目を丸くした。その手から、パンが落ちる。


「嫌ならいいんです。ただ、せめて、あなたが安全なところで自立するまで……」


 ユメリアはスカートをぎゅっと握り、泣きそうな表情で立ち上がった。


「だめ……」


 涙がその頬を伝う。


 ――俺に気持ちはないのか。


「ごめんなさい」


 少女はそのまま、その場から立ち去ろうとする。敷物をあわてて片づけ、少年は後を追う。


「待って」


 少女の手を引こうとしたとき、彼女がその手を振り払った。振り払ってから、ハッとした顔をする。


「ご、ごめんなさい」


――俺は、こんなにも嫌われているのか……。


 それからふたりは、枯れ葉を踏む音だけを森に響かせ、ひと言も話すことなく屋敷まで帰った。


 湖での一件以来、ユメリアはナギを避けるようになった。顔を合わせると、気まずそうにうつむく。それまでは、寝るとき以外は、たいてい一緒に過ごしていた。昼間はナギがリハビリをして、それにユメリアが付き添った。ナギの体が動くようになってからは、北の塔の簡単な掃除をふたりでやった。でも、いまはなるべく顔を合わせないようにしている。


――俺のことは、好きにはなれないんだな。


 助けられたからといって、恋心を抱くかどうかは別の話だ。アレクに裏切られたことだって、まだ尾を引いているかもしれない。


――それに。「助けた」といっても、それは結果じゃないか。


彼女が蹂躙されるのを、見ているだけの時間のほうが、ずっとずっと長かった。そんな男と、彼女が生活を共にしたいと思うだろうか。

 顔を合わせ、ユメリアの表情が沈むたびに、ナギは胸が痛んだ。そのナギの顔を見て、ユメリアがつらそうにまたうつむく。


――そんな顔、しないでほしい。


ナギはそれだけは、すこし不満だった。俺だって、好きでこんな顔をしているわけじゃない。気まずいままに、日々が過ぎていった。

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