少女の平穏と不安
このごろ、ユメリアは着替えをするたび、消えたくなる。
アレクや警察に見つかるのではないか――。その心配があるとはいえ、ユメリアにとって、ここでの暮らしは平穏だった。誰にもからだを好きにされない暮らし。
――アレク様のことは慕っていたと思っていたけれど……。
離れてみて、ユメリアは気づく。こちらの都合おかまいなしに、乱暴に肉体関係を求められることは、苦痛だった。
ゲルバルドも医師もマデリンも、ナギさんと呼ぶことになった庭師も、ユメリアに何かを求めはしなかった。気が張っているうちはよかった。けれど、安堵するほどに、ユメリアのなかから、どろどろと流れ出すものがあった。
――何も返すものなんてないのに、この人たちはどうして優しくしてくれるんだろう。
ユメリアのなかに、新しい不安が根を生やしていく。
――この傷、消えるのかな。
ネグリジェに着替えるまえ、少女は自分のからだを見る。拘束されたときについた手首や足首のあざ、手枷を逃れようとしてついた切り傷。まだ添え木をあてたままの指。包帯を巻いたままの左手の中指と薬指。爪をはがされたなんて人に知られたくなくて、しばらく医師にも隠していた。気づいた医師からは、「ばい菌が入ったらどうするの」と怒られた。背中にもいくつか傷があるはずだ。鏡をのぞけば、首にはまがまがしい、絞められたあとがまだ残っている。
――こんなの、ナギさんに見られたくないな。
傷を目にするたび、地下室の恐怖がよみがえる。そして、スミスが耳元でささやく。
「君に価値なんてないんだよ」
ナギが笑いかけるたび、ユメリアの心は痛むようになった。
――どうして、こんなすてきな人が、わたしなんかを。
そうだった、この人は、わたしにはあまりにもまぶしい人だった。お屋敷の日陰の部屋で、“貸出”される馬車のなかで、いつも思っていた。
自分はこの人にふさわしくない。汚れている。何もできない。そのうえ、わたしは彼の人生を台なしにしてしまった。
昔、りんごをあげたことを、感謝してくれているのは知っている。でも、それは魔法みたいなもの。いつか、とけてしまう。
――魔法がとけたら、ナギさんは、他のひとを好きになるのかな。ううん、他のひとを好きになったほうがナギさんは幸せ。
でも、その日のことを考えると、怖くてたまらなくなる。少年がほかのひとの手を取って、自分のもとを去ってしまう日を思うたび、胸が錐で刺されるように痛む。「自分勝手だなあ。価値がないのに、彼を縛りつけておくなんて」。スミスの声が、また聞こえる。
――でも。
いつか、庭師小屋にかくまってもらったときのことばも思い出す。下男のエリスにおどされて、彼を頼った。あのとき、彼はエリスに「お嬢様に気があるわけない」と言っていた。
それを思い出すと、ほっとする。あの人は、ただ優しいだけだもの。ひどいことをされているわたしを見過ごせなかっただけ。いつかはすてきなあの人にふさわしい、他の女の人と幸せになる。ほっとして、やっぱり胸がきりきり痛む。
そこまで考えて、見て見ぬふりしている気持ちに気がつく。わたしが、ナギさんにふさわしい女の子だったらよかったのに。ふつうのお家で育った、ふつうの子。それで、ナギさんを好きになって、ずっとずっといっしょに暮らす。
でも、ほんとうのわたしは、現実のわたしは……。
それに、近ごろ、ひとにさわられるのがなんだか怖い。医師もナギも、ひどいことをしないとわかっているのに、体が反応してしまう。怖くて痛かったことを思い出す。ことばにできない、感覚的な恐怖の記憶。
――あのまま、地下室で殺されていればよかったのかな……。
少女はだんだん、少年の前でうまく笑えなくなった。
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