この人を抱きしめたい、口づけたい、さらいたい
眠れずに迎えた朝。
「アレク様がお呼びだ」
執事のスタンレイから声をかけられ、アレクの執務室へ向かう。
執事でも従事でもない少年が、屋敷、それも主の領域に入るのははじめてのことだった。
身の回りの世話をするメイドや従事をのぞき、貴族である主と使用人が直接口をきくことは、めったにないと聞く。
しかし、このロマノフスカヤの屋敷では、大切な辞令をアレク自らが使用人に直接伝えることがしばしばあった。
ここでは、使用人は大切にされていた。
うわさに聞くように、落ち度のあった使用人を鞭で叩くようなこともなく、
食事も質素ではあってもじゅうぶんなものが提供されていた。
師匠が倒れたときも、かかりつけ医で手に負えないとわかると、
アレクは迷わず馬車を使い、街の病院へ運ぶよう指示をした。
――あのひとのことも、それぐらい大切にしてくれればいいのに。
どうせここを去るのだ。最後にそれぐらい言ってやろうか。
そんなことを思いながら、少年は深紅の絨毯が敷き詰められた廊下を歩いた。
しかし、少年がアレクから言い渡されたのは、意外なことだった。
「お前さえよければ、この屋敷の庭は任せたい」
ただ、未熟なうちは、週に二、三回は街から経験豊富な庭師を通いで呼ぶ。
その人に指示を仰ぐこと。
「お前、腕がいいからな。薔薇園も状態がいい」
師匠が少年のことを、アレクに「仕事熱心で将来有望だ」と事あるごとに言ってくれていたことを、はじめて知った。
「わたしは老い先短い」と、自分の身に何かあっても、少年がこの屋敷で働き続けられるよう、さまざまな頼みごとをしていた。
「通いの経験豊富な庭師」も、生前の師匠のはからいのひとつだった。
――師匠……。
「これからも、よろしくお願いします」
少年は、胸に手をあててお辞儀をした。
いつか、師匠に教えてもらったように。
師匠から受け継いだ道具を手に、庭へ出る。
今日から、ひとりで庭のめんどうを見る。
師匠から受け継いだ庭を、もっとりっぱに、うつくしくする。
重責とよろこび、そして消えない喪失感。
それらに同時に襲われながら、秋咲きを前にした薔薇のめんどうを見た。
――この屋敷に残れるようになったと、あの人に、早く伝えたい。
そう思うと同時に、心に翳りをさすのは……。
――あの人と関わるのはやめなさい。
かつての師匠のことばだった。
いまは、しみじみとわかる。
あれは身寄りのない少年を本気で案じてのことばだった。
――あの人との関係は、誰にも知られないようにしよう。
師匠の気持ちを裏切るようで、うしろめたさは感じる。
それでも、少年には、彼女と関わらない選択肢はなかった。
西の空に長くたなびく雲がだいだい色に染まる秋の夕暮れ。
人気がないことをたしかめて、彼女の部屋の窓を叩いた。
念のため、ふたり、木の陰に身を隠して話す。
「俺、お屋敷に残れることになりました」
そう伝えると、「よかった」と彼女が微笑む。
微笑んで、もう一度「よかった」と繰り返して、涙をこぼした。
その反応に少年がとまどった以上に、少女自身が驚いていた。
「……なんで涙が出るんだろう」
変だね、と彼女が手の甲で涙をぬぐった。
「庭師さんとこれからも会えるんだって思ったら、なんだかほっとして」
夕闇がせまるなか、彼女の瞳から、涙が流れ続ける。
――きれいだ。
きれいで、はかなくて、夕闇に消えてしまいそう。
「ほんとは、怖かったのかな。会えなくなるの」
少年は、夜明け前に見た彼女の表情を思い出す。
――このひとは、平気なんかじゃなかった。それなのに……。
そう思った瞬間、いままでと違う感情が、少年の胸にうずまいた。
――この人を抱きしめたい、口づけたい、抱きたい、さらいたい。誰にもさわらせたくない。俺だけのものにしたい。
嵐のような熱情にさらわれそうになるのを、耐える。
少年は、無意識のうちに腕を伸ばしかけ、こらえた。
この人は、"お嬢様"で、アレクの……。
「これからも、お花、見せてくれる?」
ほほ笑みながら言う彼女に、少年は「喜んで」と答え、心のなかだけで続ける。
――俺の女神さま。
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