あのひとが、俺以外から贈られた花を手にしている
師匠が後を頼んだ“通いのベテラン”は、エドガーと言った。30絡みのその男は、師匠のもとで修業し、独立したという。少年にとっては兄弟子にあたり、この屋敷の庭のことをひと通り知っていた。
少年の目が届かない箇所をチェックし、指導かたがた一緒に作業をしてくれる。少年にとっては、指導に加え、ひとりではしづらい力仕事を助けてもらえるのは助かっていた。人の手を借りるときは、下男を束ねるエリスと話をせねばならない。師匠がいないいま、少年は、エリスとはなるべく関り合いになりたくなかった。
「そこ、もうちょっと刈り込むか。今やっといたほうがいいだろ」
エドガーが、マロニエの木をさしていう。少年はうなずき、持っていた脚立を幹にかけて、剪定をはじめる。新芽が出ないこの時期は、木に負担をかけず剪定できる。樹齢を経た木や勢いがない木を選んで形をととのえていく。
マロニエの木の上からは、応接室が見えた。
――あのひとだ。
応接室に、少女が座っていた。ふだんは自室から出ることのない彼女が、屋敷の表側にいる。少年の鼓動が速くなる。
少女は、桃色のドレスを着ていた。彼女がもっている服のなかでも、数少ない袖がすり切れていないものだ。そして、ときどき気をつかったようすで笑っている。その対面には……。
――男。
薄い茶色のベストとズボン。ブラウンの髪。少年の位置からは顔は見えなかったが、身なりからは金持ちか貴族であること、髪の色や手もとの様子からは、若い男であることがうかがえた。
「おーい、剪定……」
下からエドガーに言われ、少年は我に返る。
「す、すみません」
――集中しろ……。
少年は応接室をなるべく見ないようにして、マロニエの枝に手を伸ばした。
「俺、そろそろ帰るわ」
剪定が終わると、エドガーが道具をしまいながら言った。
「ありがとうございました」
少年は礼を言いつつも、気もそぞろだった。客の男がそろそろ暇を告げるらしく、立ち上がっていたからだ。革製の道具入れを丸めながら、エドガーが笑いながら言った。
「好きな女でも通りかかったか」
「えっ、あっ」
少年はうろたえる。
「珍しくボーっとしてたからよ」
「すみません……」
「あやまるこたあない。若いときはそんなもんだ。安心したよ」
「安心……ですか」
「師匠のじいさんが言ってたよ。『腕はいいけど、クソ真面目』って。
真面目過ぎて心配だとさ」
人生を楽しめよ、とエドガーが肩を叩いて去っていく。
その姿が見えなくなると、少年は車寄せのほうへと走った。「あのひとと関わるな」と言った師匠のことばを思い出すと、胸が苦しくなる。
――ごめんなさい、師匠。
車寄せの屋根の影になる位置の木に登り、手入れをしているふりをした。やがて、男とアレク、そして少女が出てくる。話し声までは聞こえない。口ひげをたくわえた男が穏やかな笑みを浮かべ、彼女の手を取り、その甲に別れの口づけをした。儀礼と知ってはいても、少年の内心は複雑だった。
それと、彼女の手には――。
――薔薇の花。
少女が、自分以外の男から贈られた花を手にしている。そのことに、少年は動揺した。やがて、男が馬車に乗り込み、去っていく。
夕闇が濃くなるまで、少年はその場から動けなかった。
――いいじゃないか。
少年はひとり、庭師小屋で悶々としていた。
――彼女が、貴族か金持ちに見初められる。喜ぶべきじゃないか。
いつか、師匠は言った。彼女の行くすえは、よくてアレクの妾か、嫁の来てがない男に嫁ぐことだと。だから、アレク以外の男に嫁ぐとしたら、年老いた男や、不潔な男、乱暴な男……そういった相手を想像していた。でも、今日見かけた男はそのどれでもない。アレクよりすこし年上だったがまだまだ若く、身なりもきちんとしていた。それは、少年が想像したことがない未来だった。
――彼女にはふさわしい相手じゃないか。俺なんかより、ずっと。
この屋敷では虐げられているが、彼女の立ち居振る舞いには気品があった。欲目を抜いても、美しい容姿をしていた。うつむきがちなところが、その美の何割かを隠してしまってはいたけれど。何か事情があって母が出奔した良家の子女――。少年は彼女の出自をそんなふうに想像していた。何より、主の”お手付き”である彼女を、使用人の自分が連れ出し、どこかで幸せにする。考えれば考えるほど、それは難しいことだった。
――しかし。
アレク以外の男のもとへ嫁ぐ。それは彼女にとって、喜ばしいことなのだろうか。少年の心も考えも、千々に乱れてまとまらなかった。
次の日、悶々としながら裏庭を通りかかると、彼女がいた。会釈をして通りすぎようかと迷い、やはり声をかける。
「めずらしいですね」
「そろそろクリスマスローズが咲くかなって思って」
しゃがんだ少女の隣で、少年も身をかがめた。
「もうすこし先でしょうね」
地面近くでぎざぎざとした葉を伸ばしているが、まだつぼみは見えない。彼女の顔を盗み見る。その表情は、どこか物憂げだった。
「昨日は、お客様がいらしていたんですか?」
思い切って、聞いてみた。
「ああ……」
彼女が視線を落とした。
「たまたま、応接室の前で、木を手入れしていたので……」
「アレク様のお友達で、スミス様って方。お話ししたいって言われて、呼ばれたの」
どうしてでしょう、その男はあなたに気があるんでしょうか、あなたはどう思っているんですか。聞きたいことが渦巻く。
「応接室に入れてもらったのなんて、はじめて。びっくりしちゃった」
ソファーがびろうど張りでね、と少女ははしゃいだ声をつくろうとして、途中でため息をついた。
あの男と何を話したんですか、楽しかったですか。
――でも、そんなこと、聞くべきじゃない。
「お嬢様は……」
考えがまとまらないのに、口をついて出た。少女が小首をかしげて少年を見た。日陰の庭で、彼女の灰青色の瞳だけが、浮かび上がるように見えた。
「なあに?」
アレクのことはまだ好きですか、あの男と幸せになれそうですか。
――こんなことも、聞くべきじゃない。
「なんでもないです」
少年はあいまいに首をふって、立ち上がる。
「そろそろお部屋に戻られたほうがよいですよ。冷えますから」
――このひとが幸せになるよう、願う。俺にできるのはそれだけだ。
少年は、そう自分に言い聞かせ、小屋へと戻った。
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