霧と煙のリュートック編

プロローグ、あるいは追う女

 ナギとユメリアが新しい生活へと踏み出そうとしていたそのころ――。


 リュートックからはるか南、首都・スワンプフォートの一角は、工場帰りの労働者でにぎわっていた。揚げた芋やら魚やらのにおいがたちこめ、女たちがそれを買い求めるために並び、パブで一杯引っかけた男たちが酒くさい息を吐く。

 そんな喧騒のなか、

「ケンカだ、ケンカだ」

「あっちだってよ」

誰ともなく声があがり、あっという間に人だかりができる。

「ドレスの女と……一、二、三、四人かよ。勝負するまでもないんじゃないのか」

「俺ぁ女に賭けるぜ」

「じゃあ、俺はチンピラに」

賭けの対象となれば、自然と声援も熱を帯びる。

「姉ちゃん、やれ、やっちまえ!」

「そんなほっそい姉ちゃんに負けんじゃねえぞ!」


――いいねえ、いいねえ。


 野次馬の声を聞いたドレスの女は、右こぶしを左の手のひらにぶつけて気合いを入れた。ヴェール付きの帽子をかぶって、その顔はよく見えないものの、口元には不敵な笑みが浮かんでいる。それは、孔雀を思わせるブルーグリーンのドレスにはあまりにも不似合いなものだった。

 腕につけていたバングルを拳に移動させ、裂いたスカーフを巻き付ける。貴石をつけて、メッキを塗り、宝飾品を装ってはいるが、クロム鋼だかなんだかを混ぜた合金製。要するにナックルだ。

「おい、やめんなら今のうちだぞ」

すごんだごっついチンピラその一に、開幕一番、ドレスの女は右ストレートを入れる。拳が与えた衝撃に男の頬がゆがむさまが、スローモーションのように見える。


――これが見える日は調子がいい!


つづいては、後ろから迫る男をまわし蹴りで仕留め……るはずが、ドレスの裾がもつれてうまくいかない。すんでのところで攻撃をかわして、全体重かけて右ストレート打ったら当たったから結果オーライ。

「くっそ、やっぱり動きづらい」

 クリノリンだかバッスルだか、骨組み入りの下着が必要なドレスにしなくてよかったと心底思う。このドレスをあつらえるまで、貴族の令嬢が着ているようなスカートがふくらんだドレスの下に、あんな骨組みがあるとは知らなかった。


――だったら、ああいうの喜んで着るんだろうけど。


女はドレスの裾を裂きながら考える。


――パゴダ型とかいわれたっけ、このひらひらした袖も動きづらいったらありゃしない。


心のなかで愚痴る。が、この服装のおかげでチンピラどもが油断したのもまた事実。ふだんの男装もどきのスーツ姿では、こうはいかない。


――何事も一長一短ってわけだ。


「てめえ」

 向かってきた男をステップでかわし、肘うちを繰り出す。相手の顔面にヒットはしたものの、ドレスの布地がじゃまして、相手の皮膚を切るまでにはいたらない。


――袖をまくっていりゃ、目の上切ってたのにな……。やっぱこんな動きづらい服には「短」しかねえ。


とはいえ、今日はこのかっこうでやるしかない。肘を入れられて逆上し、殴りかかってきた男のふところに身をかがめてもぐりこみ、腕を取って地面に叩きつける。


――ジュージュツとかいったか、こいつはなかなかいい。


この前、東洋帰りの男に教えてもらった技がさっそく役に立った。

「うおおおおお」

ナイフを抜いた男がいる。


――動きがいちいちデカいんだよ! 


ナイフをふりかぶったその腕を左拳で流し、ワン・ツーで右拳を叩き込む。ヴェール付きの帽子が女の頭を離れ、まとめていたプラチナブロンドの髪がほどけて流れ出た。


――いった! 


打撃が決まった快感に酔いしれている暇はない。はじめに倒した男が起き上がろうとしているのが、視界の端に入ったからだ。


――わたしの体重ウェイトじゃあ、昏倒までは無理か。潮時だ。


悟った女は、今しがた吹っ飛ばしたナイフ男の背を足で踏み、得物を取り上げる。

「これ以上やりてえ奴はいるか!」

野次馬たちは見た。艶のあるドレスをまとったプラチナブロンドの美女が、ナイフを手に、獣のごとく吠えるのを。群衆は一瞬しんと静まり、次に沸いた。

 人ごみのなか、たったひとり、その咆哮に呑まれなかった者がいる。

「ああああああああ、何やってんですか!」

人の間をかきわけ、ひとりの男が飛び出してきた。

「ド、ドレス……」

女の姿を見て、栗毛碧眼で、タキシードに身を包んだ温厚そうな男の顔色が変わる。

「アレリア、遅えよ。待たされている間に絡まれてさ」

「いやいやいやいや、ほんの五分も待たせてないですよ!? あなたの頭がこんなに悪いとは……」

言いながら、アレリアと呼ばれた男は、女の手を引いて駆け出す。

「今日は四人やった! こんな服着ててもやれるもんだな」

アレリアの反応にかまわず、女は得意満面だ。はあ~っと深いため息をついて、アレリアは流しの馬車を呼び止める。

「そのドレス、なんのために着てると思ってるんですか」

「夜会に出るためだろ?」

「それと、目立たないためですよ! 夜会の! 帰り道でも! 『淑女レディぐらい演じてやらあ』とか言ったのはどこの誰ですか!?」

「あんな窮屈な夜会、終わったんだからもういいじゃ……」

女が言い終わる前に、アレリアかぶせた。

「軍資金! 有限なんですよ。それ、売る予定だったんですから……」

アレリアは頭を抱える。

「そのうえ、あれだけ目立つことをして。なにが『これ以上やりてえ奴はいるか』ですか。馬鹿ですか。そうでした、あなた、馬鹿でした……」

ひとりで完結してから、恨みがましい目で、アレリアが女を見上げた。

「せっかくいい話があったのに……」

「いい話?」

女が片眉を上げた。

「継続的に捜索してくれそうな情報屋と話がついたんですよ。予算内で」

「いい話ってそれだけか」

たちまち女が細く整った眉を寄せる。鼻はすっと高く、大きな瞳は灰青色で、やや切れ長。顔をしかめるだけでも、なかなか迫力がある。

「それだけでも、この国まで来たかいがあるってもんですよ」

女は大きくため息をついた。

「ロマノフスカヤの屋敷に行きゃ、すぐにでも会えると思ってたんだがなあ。あのアレクってヤツ、もっとシメて吐かせりゃよかった。なんかあやしかったよなー。ロマフスカヤの親戚筋が出るっつうから夜会にまで出たけど、そっちもあの子のことは知らないっていうし」

頬杖をつきながら、女が顔をしかめる。

「隠し事はしているにしても、アレク氏が彼らの行方を知らないのは本当でしょう」

「無事でいてくれりゃいいけどね」

女が遠い目をした。

「きっと見つかりますよ」

アレリアが力強く断言した。

「その庭師とやらは警察に追われているのでしょう。そのうえ、反社会的な人物であれば――。きっといつか、情報屋の網にかかります」

「そうだな」

女が不敵な表情を取り戻した。薄く形のよい唇を横に引いてニイッと笑う。

「ぜったいサーガ姉さまが見つけてやるから、待ってろ、ユメリア!」

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