狩猟期の終わり
秋の狩猟期も、もうすぐ終わる。ゲルバルドは黎明を待って、屋敷を出発した。
「いくぞ、マーヴィン」
供はたった一匹、猟犬のみ。その名を呼ぶと、呼気が白くけぶった。マーヴィンはウェルシュ・コッカー特有の絹のような毛並みをなびかせて走り寄り、一声、元気にほえた。
馬を駆り、領地の外れに向かう。冬が間近に迫った山は、静まり返っている。ゲルバルドに聞こえるのは、馬のひづめの音と、マーヴィンが枯れ葉を踏んで走る音のみ。ゲルバルドは心が休まるのを感じる。
――アイリスがあんなことになったのに、まだ狩りなんぞにうつつを抜かすのか。
亡き妻の父――義父に言われたことを思い出す。狩猟は貴族のたしなみということになっているが、血なまぐさい遊びと目されることも多い。しかし、娘・アイリスが生きていたころから、ゲルバルドにとって、狩猟は心をしずめるものだった。狩りといっても、貴族が大勢で行う狐狩りは性に合わない。従者をともなわず、たったひとりで山へ入る。狙うのは、キジやライチョウだ。獲物と呼吸を静かに合わせ、対峙する。仕留められるのは、自らと獲物、そして世界の鼓動が一体となったかのように感じられるとき。狙いを外し、獲物が木の枝をガサガサと鳴らして逃げていくときの、落胆と安堵がまじった心持ちもいい。
とはいえ――。ゲルバルドにとって、山は心をかき乱される場所でもあった。
「お父様、このきのこは食べられるかしら?」
突然、赤いドレスを着た、幼いアイリスの姿を幻視する。ゲルバルドがそうであるように、アイリスもまた、この森を愛していた。父子で森を歩くことを、何より好んだ。いたるところに、影法師のようにアイリスの思い出は潜んでいる。
「ねえ、お父様、わたしも狩りができるかしら?」
娘に成長したアイリスが馬上で問う。
「やめておけ。女が狩りなど」
「お父様、時代遅れ」
頬をふくらませ、いかにも不満げな顔を作る。涼やかで凛とした雰囲気をもちながらも、ときに子どものような表情を見せる。
「ほら、わたし、馬にだって乗れるもの」
「森は危ないぞ」
「わたしだって、お父様と同じ。この森が好き。もっともっと、森のことを知りたいの」
ほがらかに笑って、駆けていく。
森とともに育ち、森を愛したアイリスが、森に生きる木こりの青年と恋に落ちるのは必然だったのかもしれない。そして、やがて、アイリスは森に消えた。
それにしても、今日は冷える。狩猟小屋で体を温めようと、馬を降りて斜面を下った。小屋が目に入ったあたりで、すぐに異変に気がついた。何がおかしいのか考えるより先に、マーヴィンが激しく吠えたてながら、斜面を駆け下りた。栗色の垂れ耳をパタパタと揺らしながら、吠えたて、唸りながら、小屋の周りをぐるぐると周回している。
――薪が燃えたにおいがする。
この前来たとき、火を消し忘れたのか? それなら、とっくに山火事になっているか、燃え尽きてにおいも消えているかどちらかだろう。
ゲルバルドはそっと小屋の周囲をうかがった。小屋の入り口に向かい、足跡がふたりぶん、草原のほうからつづいている。
――だれかが、なかにいる。
賊か。ただ、片方の足跡はずいぶんちいさい。ゲルバルドは顔をしかめる。まさか若い領民が、逢引きに使っているのか。
マーヴィンを下がらせ、ドアノブに手をかける。扉に身を隠し、そっと中の気配をうかがうと、だれかが動く気配がした。ゲルバルドはそのまま銃をかまえ、銃身を扉のすき間に差し入れた。それでも、小屋のなかの誰かは襲ってくる気配はない。侵入者は、害意のないもの、あるいは非力な誰か。ゲルバルドはそう推測すると、小屋へと踏み込んだ。
そこにいたのは、女だった。若く、まだ少女といっていい顔立ちだ。その膝に、黒いもの――。男が頭を乗せている。マーヴィンがふたりの前へ走り、吠えたてると、少女がおびえた様子で顔をひきつらせた。
「来ないで」
震える手で、ちいさなナイフを握り、ゲルバルドに向けている。ナイフの切っ先が定まらず、いまにもその手から落ちそうだ。左手の中指と薬指がおかしな方向に曲がって腫れていることに、ゲルバルドは気づく。あれでは、子ども相手にだって、かすり傷ひとつ負わせられそうにない。銃を下ろし、ため息をつく。
「ここはわたしの小屋なのだがね」
少女がハッとした表情をする。ブラウスが破れ、白い乳房がいまにも見えそうになっている。
「乳繰り合っていた人間に追い出される筋合いはない」
少女が眉根を寄せ、片手でブラウスをかきあわせた。ゲルバルドはもうひとつちいさくため息をつき、少女の手からナイフを取り上げた。近づいたとき、はっきりと見えた。首にしめられたあと。胸にもいくつか、あざや切り傷がある。いつか、物言わぬアイリスの体に見たものを、否が応でも思い出させた。少女の膝を枕にしている男の顔も、腫れあがっている。ナイフをたたんで少女に返すと、少女は戸惑いながらも受け取った。
「その男にやられたのか」
少女は問われた意味をはかりかねている。
「首のあざやら、指やら」
少女が頭をふった。
「これは、違います……。それと、わたしたち、ここでいやらしいことをしていたわけじゃなくて……」
「さっきはああ言ったが、その男の様子なら無理だろうな」
そのとき、少女の膝の上から、声がした。
「お前……彼女に近づくな……」
男が腫れあがった顔をこちらに向けた。使用人が着る簡素なシャツとズボン。弱々しいなかに、必死さだけを宿した声色。それを聞いた瞬間、
――アイリス、アイリス、アイリス!!!!!
慟哭がよみがえった。
――なんでなんでなんで。俺は守れなかった、俺がもっと早く逢引きの場所に行っていれば、俺の身分が高ければ、森のなかで逢引きなんてしなくてよかった。俺が……。
領民の男はひと目もはばからず、アイリスの亡骸に取りすがった。もっとも、あの場にいたのは、ゲルバルドとあの男だけだった。身分違いの恋人、その父親の目を気にすることなく男は慟哭し、そして、次の日、森で首を吊った。
目の前では、見知らぬ少女が泣きそうな顔で懇願している。
「お願いです、この人、助けていただけませんか」
「なんの義理があって」
もっともらしくはねつけた。娘のことは、もう思い出したくない。
――止めないで!
今度は、マデリンの声がよみがえる。今日は思い出したくないことばかりが、記憶の蓋をこじ開ける。あの貴族が釈放されたと知るやいなや、マデリンはナイフを持って屋敷を飛び出そうとした。
――中央の貴族の息子だからって……。判事が、たとえ神様がお許しになったって、わたしが許さない。
早くに母を失ったアイリスを、小さいときから手塩にかけて育ててくれた乳母兼メイド。「そんじょそこらの男にお嬢様はやれませんよ」が口癖だったマデリン。彼女がやろうとしていることは、ほんとうは父親である自分が果たすべきことなのだろう。
しかし――。母はとうに亡く、恋人が死に、父である自分が、あるいは乳母が死んだら、だれがアイリスを覚えていてやれるのか。それに、ゲルバルドはこの領地と領民を愛していた。あの腐った貴族にこの領地が接収でもされたら、それこそ耐え難い。
「頼む」
ゲルバルドはメイドに頭を垂れた。
「生きて、あの子のことを覚えていてやってくれないか……」
老いた瞳から涙が落ちた。
「頼む、わたしから、これ以上何も奪わんでくれ……」
「勝手に小屋を使ってしまったこと、どうかお許しください」
少女が謝罪して、小屋を出て行こうとしている。男の腕を自らの肩にかけ、立ち上がろうとするが、何度やっても上手くいかない。やせた男は、思ったよりずっと年が若そうだった。粗末な衣服を身につけた少年。一方、少女の衣服は、質素ながらも質がよさそうだ。
「貸してみろ」
ゲルバルドは、少年の腕を肩にかけ、立たせた。アイリスのことは、思い出したくはない。だが、なかったことにはできない。あの領民の男――ジャニスといったか、彼のことも。
「だめだ、あのひとを」
焦点が合わない目をして、少年がつぶやく。
「あの」
少女がおずおずと声をかける。振り返ると、大きな瞳に戸惑いをあらわにしてゲルバルドを見つめていた。
「あとでお前も連れて行く。ここで待っていろ」
少年を運びながら、ゲルバルドは考えを巡らせる。
――北の塔はほとんど使っていない。世話をさせるのはマデリンがいいだろう。ただ、ほかの使用人にはあまり知られないほうがいい。
ふたりの素性はわからない。あの貴族と関係があるのかどうかも。しかし、ゲルバルドには確信があった。
――これは自分がやるべきことだ。
小柄で痩せているとはいえ、脱力した少年は、思いのほか重い。その体をなかば引きずりながら斜面を登るのは、老骨に鞭打つ、ということばがふさわしい。マーヴィンが鼻をならし、心配そうに見上げながらついてくる。
「たのむ、俺じゃなくて、あのひとを」
少年がうわごとのように言う。ふと足を止めて、少年の顔を見る。顔は腫れあがって輪郭がわからないが、黒い髪と肌の色からいって、移民なのだろう。あの少女は“庭師さん”と呼んでいた。このあたりで庭師を雇えそうな屋敷といえば、ロマノフスカヤ家か、それともあの忌まわしい貴族の家か。
「安心しろ」
少年の腕を、もう一度肩にかけ直す。
「今度は守ってやる。必ずだ」
ゲルバルドは顔をしかめ、斜面をまた一歩、一歩とのぼっていく。
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