夜の底
ナギが家に帰ったのは、夜明け近くだった。フラットに近づくと、うずくまった丸い影が、跳ね起きた。ランプを手に、その影が近づいてくる。
「ナギさんっ」
「ユメリア……」
「だいじょうぶ? ケガしてる……。何があったの? リウさんは?」
矢継ぎ早に質問するユメリアが、どこか遠くに感じられた。
「ごめんなさい、休みたいんです」
ナギはユメリアをなるべく見ないようにして、フラットへ歩き出した。
部屋に戻る途中、「ちょっと待ってて」とユメリアが言い置いて一階の扉を叩き、その住民の老婆に、何かを伝え、しきりに礼を言っていた。
「また変なひとが来たら、ジュディさんに伝えてもらうように、頼んであったから」
「変なひと……?」
「あとで話すね」
いつもの食卓にすわる。紅茶を淹れたあと、ユメリアがもう一度、「何があったの……?」と尋ねた。ナギは「あなたのほうこそ、何かあったんですか」と質問で返した。ユメリアは床に置きっぱなしだった鍋を手に、何かをさかんに説明した。
「ジョンってひと、いたでしょう。あの宿の……。そのひとが、ここへ来て、わたし、鍋を投げつけて、それで下に住んでるおばあさんが、すごい夫婦ゲンカしてると思って、ジュディさんを呼んだらしくて……」
ナギの頭には、まったく入ってこなかった。
「で、ジョンってひとは、リウさんがどこかへ連れて行って、ジュディさんはお子さんのお世話があるから帰って……あ、それとね、ジュディさんはゲルバ……」
頭に霞がかかったようだ。ぼんやりとユメリアを見つめる。目の下に疲れをにじませているが、誰かに何かされた、という感じではない。話をさえぎって、ナギは聞いた。
「それで、あなたは無事?」
「えっ……」
ユメリアがまじまじとナギを見た。
「無事?」
「うん……。何もされなかったよ。ジュディさんが来てくれ……」
「じゃ、いいです」
「ナギさんは、だいじょうぶ……じゃないよね。ケガ、してる」
自分の顔に、手をやる。そういえば、顔が腫れている。全身が痛い、ような気がする。ユメリアが、濡らした手ぬぐいを持ってきてナギの顔をふいた。水のひんやりとした感覚で、顔が熱を帯びていたことを自覚する。
「オリバーさんと、なにがあったの」
手ぬぐいが止まった。
「首、これ……。絞められたの……?」
ナギはただうつむいた。
「だれに……」
夜明け前の静けさが、部屋に満ちた。ナギは答えるかわりに告げた。
「俺、工場をやめます。それで、ボリスさんところで働きます」
「な、なんで……。リウさんに何か言われた……とか?」
「そんなんじゃないです」
眉を八の字にしているユメリア。ただとまどって、ナギのことを心配している。よくないな、とナギは思った。この前、ユメリアは、「ナギさんは日なたのにおいがした」と言った。このひとこそ、日なたにいるべきなのに。
「庭師の仕事、するだけです」
「前みたいに、日曜だけのお仕事じゃ、だめなの……?」
ナギは、手ぬぐいを手に立ち尽くすユメリアを見上げた。
「専属の、庭師ですよ。あなたは、喜んでくれないの?」
そう口にしながら、心のどこかで思う。この言い方は、ずるい。
しばらくして、ユメリアの灰青色の瞳から、涙が流れた。
「わからない……。わたし、わからないよ、ナギさん……」
夜の残りのほんの短い時間、寝台に横になる。ナギに背を向けたまま、ユメリアが言った。
「ナギさんは、何も話してくれないの……?」
「何を……?」
「なんでケガをしたの? 今日、何があったの……」
「酒場でちょっとケンカに巻き込まれただけです」
ユメリアはからだを丸めてすすり泣いた。
「うそつき……」
ナギはそのからだを後ろから抱く。やがて、鎧戸のすき間から、あえかな光が差し込む。
――無力だ。
ユメリアの嗚咽を腕のなかに感じながら、ナギは思った。アレクやスミス、オリバー、警察。そんなものじゃなくて……。
――もっと大きなものの前で、俺は無力なんだ。
鳥がさえずり、どこかで鶏が鳴く。夜が明けようとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます