日々は過ぎゆく

 春が来た。ナギとユメリアがリュートックへ来てから、二度目の春。

 

 ナギは先週、ボリスの邸宅へ行き、松の幹から、冬の間に巻いたわらを取った。わらのなかをたしかめると、間に虫がいた。


――本で読んだとおりだ。


わらに害虫を誘い込むことで、松から遠ざけるらしい。わらを燃やして処分するよう頼み、邸宅を辞去すると、庭仕事はすっかり終わってしまった。ボリスから最後に渡された封筒には、銀貨ではなく、金貨が一枚、入っていた。


 ナギはまた、工場と家とを往復するだけの日々に戻った。でも、変わったこともある。


 ひとつは、手もとに「新世界植物図鑑」と、庭仕事の本と、庭の設計について書いた本があること。ユメリアのすすめもあり、ボリス宅の庭仕事で報酬をもらうたびに一冊ずつ買い揃えたものだ。夜、眠い目をこすりながら開くと、ロマノフスカヤの屋敷で庭仕事に心をくだいていた日々の喜びがよみがえった。 

 

 もうひとつは、ときどき、リウというあの男から、「飲もう」と誘われるようになったこと。

 リウはナギの暮らしを知りたがった。何時に起きて何時に寝るのか、工場で何をしているのか、ふだん何を食べているのか、植物のどんなところに興奮するのか。最初は、何か聞き出して、おどすつもりなのかと警戒したけれど、そうでもないらしい。あるとき、「そんなこと聞いて楽しいのか」と尋ねると、リウは牡蠣のオイル漬けをつまみながら言った。

「おもしろいに決まってるだろ」

「なにが」

「俺のまわりには、工場勤めしてる真面目くんなんていないからな」

「バカにしてんのか」

軽く顔をしかめると、リウが首をふって「悪い」と笑った。

「ガキのときから、まわりはチンピラばっかりだったから」

リウは色街生まれで、ちいさいころから「肌が白いガキども」となわばり争いを繰り広げていたと話した。

「ナギの親はどうしてんだ」

「知らない。俺は捨て子だから」

「いい里親にでももらわれたのか」

「そんわけない。ずっと孤児院だよ」

ナギは黒い髪をつまんだ。

「こんな見た目じゃ、仕事もなかなか見つからないし、孤児院は追い出されるし……」

「そんでお前、グレずにやってきて、工場勤め?」

リウは本気で驚いたようすだった。

「悪いか。俺はまじめに働いて、まっとうに暮らしたいだけだ」

そして、まじまじとナギの顔を見て言った。

「お前……なんか、すげえな」

 リウが考えていることはよくわからない。近づきたくない世界に属している男だなとも思う。ただ、とりとめもない話をするのは、なんだかんだ楽しかった。

 とはいえ、ユメリアと過ごす時間が削られるのは痛かったけれど。


 そのユメリアは、あれ以来、家賃をひとりで払いに行くようになり、大家のジュディとの月一回のお茶がつづいている。あの渋面の大家とユメリアが何を話しているのか皆目見当がつかないが、帰ってくるたび、「今日は赤ちゃんを抱っこさせてもらったんだよ」と楽しそうだ。春から週に三日、お針子の仕事をするようになったのも、ジュディからの紹介だ。


 近ごろ、ユメリアは、ナギによくふれるようになった。自分からナギの手をにぎったり、頬に手をやったりして、目が合うと顔を赤くする。そのたび、ナギはそういうことができる日も近いんじゃないかと思うけれど――。


――あせらない。


と、言い聞かせていた。


 日が少しずつ長くなって、工場横の屋敷の庭では、薔薇に新芽が出ている。それを見るのが、ちいさな楽しみだった。こんなふうに平穏に、日々はつづいていくのだろう。ナギは思っていた。


 その日までは。 

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