闇夜のリュートック編
脅迫
ナギがその後の人生を通し、後悔しつづけたことが、三つある。
ひとつは、ロマノフスカヤの屋敷から、ユメリアをもっと早く連れ出せばよかったということ。
もうひとつが、あの春の日、リュートックの雑踏で、振り返ってしまったこと。
「チャウじゃないか?」
ナギは、昔の名前で呼びかけられて、思わず立ち止まった。それが懐かしい顔だったから。
「……オリバーさん」
かたい茶色の髪と筋肉質なからだつき、角ばった輪郭がいかにも頑丈な印象をあたえるが、灰色の瞳は思慮深げだ。気は優しくて力持ちを地でいく男。ナギより三つ年上のオリバーは、孤児院でみんなに慕われていた。
「覚えてくれていたのか、うれしいな」
快活そのものの笑顔を浮かべたオリバーから誘われるままに、酒場へ入った。
「こんなところで会えるなんて」
オリバーは仕事の買い付けでリュートックに来たのだと言う。
――このひと、ロマノフスカヤの家のことを知っているんだろうか。いや、まさか。
こんなににこやかに誘ってくれているんだし。
麦酒を頼んで、昔の仲間の近況を聞いた。
「ジミーは結局、
「あいつが番頭、ですか。想像つかないな」
ジミーは何かといえばナギに突っかかってきて、折り合いが悪かった。どちらかというと乱暴なタイプで、細かい計算をしている姿は思い浮かばなかった。
「なんであいつ、俺にあんなにからんできたんでしょうね」
そのたび、オリバーが「いい加減にしろ」と間に入ってくれた。当時から体格がよく、みんなの兄貴分だったオリバーを挟んで、ジミーとじりじりとにらみあったものだ。
「うらやましかったんじゃないのか?」
「うらやましい……? 俺が?」
「お前は何言われてもあんまり動じないっていうかさ。そういうことは、誰にでもできるわけじゃない」
――見ていてくれるひとは、いたんだな。
「それにしても、院長もひどいよな、チャウが寄付金なんて盗むはずがない。追い出されたって聞いて、心配してたんだ」
酒だけではない何かが、ナギのからだを温めた。
「それで、チャウはいま、なにを?」
「工場で働いています。そうだ、おれ、結婚したんですよ」
オリバーが目を細めた。
「おお、それはめでたい!」
ナギははにかんで「ありがとうございます」と礼を言った。誰かに面と向かって「結婚した」と言って、祝われた。それははじめてのことだった。
「飲め、飲め!」
運ばれたきた杯を、オリバーが高く掲げた。
「チャウの結婚に!」
酔いが回り、テーブルの食べ物があらかたなくなったころ。オリバーが言った。
「そういえば、ちょっと前に、故郷のほうで、嫌な事件があってな」
そして、懐からくしゃくしゃになった紙を出して、広げた。
「これ、チャウのことだろう」
ナギは凍りつく。そこにあったのは、ゲルバルドに見せられたのと同じ、新聞記事。
「な……」
絶句するナギに、オリバーは笑顔で言った。
「こわいよな。貴族、それも雇い主を切りつけて、女の子をさらうような人間がウロウロしてるなんて。見つかりゃ縛り首だ」
「違うっ」
口が渇いて、つづくことばがなかなか出てこない。
「彼女はあの家ですごくひどい目にあっていて……それで……」
このひとなら、わかってくれるのでは。淡い期待があった。
「嫁さんが、この『使用人の少女』?」
ナギはうなずく。
「あのひと、殺されかけていたんです」
「嫁さん、きれいなひとだよな。銀色の髪なんて、めずらしい」
「えっ」
ナギはオリバーを見た。
「使用人っていうか……毛色の変わった貴族のペットだったとか」
「そんな言い方っ……」
思わずテーブルに乗り出した。目の前の男の襟首をつかもうとして、迷って宙に浮いた手が震えている。
「チャウ、仲いいよな、嫁さんと」
「な……?」
心臓をつかまれたような感覚。
「嫁さん、そういう店で働いたら、稼げるんじゃないか。俺はそっちにも顔がきくから紹介するぞ」
心臓が、息が苦しい。そういう店? 何を言っているんだ、このひとは。わかる、わからない、わかりたくない……。ちがう、ちがう、ちがう。
「嫁さんが稼げば、チャウだって、もっといい場所に住めるよな。あんな川沿いのフラットじゃなくて」
ユメリアばかりか、家まで知られている。
――ナギさんの手、あったかい。
ふいにユメリアの声がよみがえった。昨晩、眠る前に、ユメリアがナギの手を取り、自らのほおに当てて言った。うっとりと安心し切った、しあわせそうな顔。こんな顔をさせられるなら、あの屋敷から連れ出した意味はあったのだと思えた。
「嫁さんが稼げば、俺もいい思いができる。そしたら、警察にも、誰にも言わない。悪い話じゃないだろう」
ナギは息を吸った。
「目当ては金ですか。金なら、出します」
ナギは、懐から、ありったけの金を出す。オリバーが笑った。
「子どもの小づかいじゃあるまいし」
「俺、俺、働きます。鉱山でも、ほかのどこか、もっとキツい工場でも。売るなら俺を」
「男なんて金になるか」
ナギはオリバーを、正面から見た。その瞳に浮かんだ表情を、何度か見たことがある。故郷の街で行き倒れる前、ナギが孤児だと知るや、悪事に巻き込もうとした男。ユメリアを前に、本性をあらわしたスミス。
――ひとを食い物にしようとしている人間の目。
そして、悟る。
――目当ては、最初からユメリアだ。
「チャウ。よく考えてみろ。おまえは金になるものをひとつだけもっている」
「あのひとはモノじゃない」
ナギは反射的に言い返した。
「じゃあ、金だな」
オリバーが新聞をふところにしまいながら、ナギの耳元にささやきかけた。
「まずは金貨五枚。五日後の午後六時。駅の前にある、キオスク横の時計のところで」
ここは俺のおごりだ、と去りかけたオリバーを、ナギが引きとめた。
「ぜんぶ、ぜんぶ嘘だったんですか」
杯が積まれ、汚れた皿が散らばるテーブルから目を上げず、ナギが問う。
「なにが?」
ナギは、オリバーを見上げた。
「ぜんぶ……。だましたんですか、俺を」
オリバーは袖口をつかんだナギの手を振り払い、「人聞きが悪いことを言うなよ」と口をゆがめて笑った。
「とにかく金だ。金が用意できなかったら……わかってるな」
ナギは長い間、うなだれたまま、その場から動けなかった。
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