「困ったことがあったら言うんだよ」

「そういえば、あなた、どこかへ出かけたんですか?」


 暖炉からスープをおろそうとしゃがんだユメリアに、ナギがたずねた。


「あ……」


ユメリアがミトンをひざに置いて、髪に手をやる。そこには、外出用のスカーフが巻いたままになっていた。


「大家のジュディさんのところへ行ったの。今月、お家賃、まだだったなって」

「あなたが、ひとりで?」


家賃はいつも月末の日曜日の午後、ふたりで連れだって払いに行っていた。ナギが驚いたのを見て、ユメリアが、ちょっと得意そうに笑った。


「ひとりでできること、増やしたいと思って」

「それで……」

「ちゃんと払ってきたよ。それにね、お茶にさそわれちゃった」

「あのジュディさんから?」


ナギは、いつも眉を寄せていかめしい表情をしている大家のジュディの顔を思い出した。子どもの騒ぐ声を背に、「今月も、たしかに」と家賃を受け取り、すぐ引っ込んでしまう。この部屋を案内してもらったとき以外、会話らしい会話をしたことがない。


「ひとのお家に招かれたのなんて、はじめてかも。ほかのひとのお家は、ちがうにおいがするんだね」




 ナギに語りながら、ユメリアは、午後のひと時のことを思い出した。


 玄関に入ってすぐのダイニング兼応接室に通され、ユメリアはジュディと向かい合って座った。ジュディの腕のなかには赤ん坊。なんでも、近所の若夫婦の子どもを預かっているらしい。そのとなりには、四つだという男の子。こちらはジュディの子だと紹介された。人見知りらしく、木のカップを手にうつむき、ときおり、ちらちらとユメリアを見やった。

 昼下がりの光はのどかだが、奥の部屋からは、キャアキャアと子どもの声が聞こえてきた。もうすこし大きい子どもたちは、居間で勝手に遊んでいるらしい。


 ふと、赤ん坊と目が合った。


――かわいい……。


ユメリアは笑いかけてみる。しかし、その直後、赤ん坊は顔をゆがめて泣きはじめた。


「ご、ごめんなさい。どうしよう」


 赤ん坊をゆすってあやしながら、ジュディは「赤ん坊なんて珍しくないだろう。子守のひとつぐらい、したことあるだろうに」と、なかばあきれ気味だ。

 ユメリアはてのひらに汗をかく。もちろん、ロマノフスカヤの屋敷で、赤ん坊と触れ合った経験などない。でも、街ではそれがふつうなのだろう。


「前までいたところは、ちいさな村で、あんまり若いひとがいなくて、それで……」


 ナギとユメリアは、ゲルバルドの領地の端の寒村でふたり、身寄りなく暮らしていたが、日照りやらなんやらで土地が荒れ、仕事を求めて街へ出てきた――。それが、ゲルバルドと考えた口裏だった。


「ふうん」


 気がなさそうな返事を聞いて、ユメリアは安心する。


「そんで、今日、旦那は」

「用事があって、出かけています」

「あいかわらず、工場勤めかい?」

「ええ、毎日忙しいみたいです」


 ジュディは紅茶をひと口飲んで、つづけた。

「街には慣れたかい?」

「なんとか……」


 答えつつ、ユメリアは、この「お茶」の意味をはかりかねていた。


――これがふつうの世間話、なのかな……。


「いいお部屋を貸していただいて、助かってます」


 曖昧な笑みを浮かべたユメリアに、ジュディは言った。


「それはよかった。困ったことがあったら言うんだよ」




 話を聞き終わると、ナギが「へえ」と言った。


「あのジュディさんがそんなことを言うなんて……」

「ね、意外でしょう」


ユメリアはほほえみ、そして、そっと口をつぐんだ。


――やっぱり、あのことは、ナギさんには、まだ、言わないでおこう……。

 



 玄関口で別れの挨拶をしたとき――。ジュディが言った。


「そういえば、この間、あっちのほうから知り合いが来てね」

「あっちって……」

「ムーアの、ゲルバルドさんの領地ほう」


 冷たい水を浴びせかけられたかのような気がする。


「なんでも、ちょっと前に変態貴族が殺されたって話だ」

「えっと、えっと、そ、それは……」


思わず、声が震えた。


「ゲルバルドさんの娘さんの話をしたろ。あの」

「ああ……」


ユメリアは目をそらし、心を落ち着かせようとした。


「そ、それはよかった、ですね」


動揺を隠せているか、自信はない。


「領地の端から、骨がザクザク出てきたらしい。あの辺は大騒ぎだってさ」

「そんなおそろしいことが……」

「あんたら、あの変態の噂ぐらい聞いたことあるだろう」

「わたしたちがいたところは、ほんとうにさみしい場所で、そんなおそろしい話は……」

「あっちの人間は喜んでいるよ。これで娘を安心して外に出せるって」

「それは……。ほんとうに、よかった……ですね」


跳ねていた心臓が、すこしだけもとに戻る。ゲルバルドやマデリンは別にして、あの行為が、だれかによろこばれる――――。そんなふうに考えたこともなかった。


「引きとめて悪かったね。じゃあ、また来月」

「ええ、ごきげんよう」


 ユメリアが胸にうずまくさまざまな感情を整理できないうちに、大家の家の扉は閉められた。道々、ユメリアは考えた。


――ジュディさんは、まさか、わたしたちのことを疑って――? だから、お茶に?


そう考えて、ぶんぶんと首をふる。


――そうだとしたら、とっくに警察に密告しているはず。そんな気があったら、「困ったことがあったら言うんだよ」なんて、言わないはず。


 来月、またひとりで家賃を払いに行って、そうしたら、もうすこしはっきりわかるのでは。


――ナギさんに伝えるのは、それからにしよう。


 ユメリアは、鍋からスープをよそい、「さ、お夕飯にしよう」と、椀をナギに差し出した。

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