「あれを買ったらどうかな」

「ただいま」

「おかえりなさい」


 ユメリアに迎えられると、ナギはやっと現実に帰ってきた、という気持ちになった。ボリスの邸宅を警備する胸板が厚く、目つきの悪い男たち、芝生が広がる庭、松、なにもかも夢のような気がする。


「お仕事、どうだった?」

「無事、なんとか」


そう答えると、ユメリアがほっとした表情をし、続いてくんくんを鼻をきかせた。


「汗、かいたから……」


ナギが遠ざけようとすると、「ナギさん、お日さまのにおいがする」とユメリアがうれしそうに笑った。


「それと……」


ナギの手を取る。


「植物のにおい」

「うん……」


ナギは手を、顔に近づける。冷え切った指先からは、まだ、松と松脂まつやにのにおいがしていた。



「それで、松、元気だった?」


ユメリアが淹れた紅茶を手に、ナギはうなずいた。


「いい感じでした。来週、もう一回行って、松が越冬できるよう、したくをするんです」

「もう一回……」


ユメリアはいったんことばを切って目を伏せて、「よかったね」とつづけた。


 ナギは迷ったものの、ポケットから銀貨を出した。古びたテーブルに置くと、それは存外重い音がした。すくなくとも、ナギにはそう感じられた。


「これ、仕事の報酬だって……」

「一、二、三……こんなに……」


ユメリアはとまどいをあらわにした。


「最初は受け取るつもりはなかったんですけど。どうしてもって」


 テーブルの上の銀貨を挟み、ふたりはしばしだまった。


「このお金で、あなたの服でも……」

「これ、取っておこうよ」


 ユメリアがつとめて明るい声でさえぎった。


「ボリスさんの松、どうなるかまだわからないでしょう。ナギさんがみているから、大丈夫だと思うけど、ほら、急にすごく寒くなるとか」


 ランプの灯りを反射させ、銀貨が静かに光っている。


「冬の服は、ゲルバルド様が持たせてくださったものがあるし、わたしたち、いま、なんとか暮らせているし……」

「そうですね……」


 ナギは口もとだけで笑って、銀貨をポケットにもどした。


「ごめんなさい……。どうしても、不安になって」


 ユメリアがうつむき、胸の前で手をにぎった。


「……しかたないですよ……」


 ナギがテーブルのうえに手を出し、てのひらを上にする。ユメリアがそこに手を重ねた。


「あなたが言うとおり、お金は、とっておきましょう」

「うん……」

「何も心配すること、ないです」

「うん……」


ユメリアはしばらくうつむいてから、「そうだ!」と、突然、明るい声を出した。


「あれを買ったらどうかな……? ええと、前にナギさんが本屋さんで見ていた……」

「『新世界植物図鑑』」

「あれ、松についても、載っているんでしょう。一冊なら、お金だってまだまだ残るし」


 ねっねっ、とたたみかけるユメリアに、思わず苦笑する。


「そうですね、一冊ぐらいなら」

「ほかにも、庭のお世話の本、もう一冊ぐらい買ったら?」

「お金、残すんでしょう」


ナギはからかうように言う。


「そうだけど……。せっかく、ナギさんが、庭師のお仕事でもらったお金だもの」


重ねた手を、ユメリアがふる。ナギは、庭仕事で冷え切った指先に、ようやくあたたかい血液が巡るのを感じていた。

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