だいじょうぶ、庭師の仕事で、ちゃんと稼いだ金だ
応接間の大きな窓から、庭が見える。芝生と常緑樹をいかした、きりっとした印象の庭。いまは冬で芝生が枯れているけれど、春になればまた景色は変わるのだろう。
――とはいえ、花は少ないな。
ナギは紅茶を片手に目を走らせる。セリ科のワイルドフラワーが見える。初夏に小さな花を群れるように咲かせるもので、華やかさよりも野性味を感じさせる品種。
――ロマノフスカヤの屋敷とは、考え方がちがう。でも、これはこれで悪くない。
ロマノフスカヤの屋敷で、四季を通じて庭はなるべく華やかに、彩りを絶やさないように教えられてきたことを思い出す。
「庭が気になるかね」
応接テーブルの向こうにいる男が問いかけた。低く、よく響く声。
「いい庭ですね」
ナギは思わずそう言ってから、「えらそうに……すみません」とあやまった。
「いや、気にしないでくれ」
ナギの前に、五十絡みのひとりの男が腰かけている。小太りで、腰かけたダマスク織のソファが沈んでいる。高級そうなツイードの三つ揃いに身を包み、葉巻をつまむ指は太く、毛むくじゃらだ。露骨な威圧感があるわけではない。ただ、発することばに不思議な重圧感があり、ひと言ずつが腹に響いた。
――これが、街の“顔役”の、ボリス。
扉の前には、ボリスの側近らしき男が控えている。目つきが鋭く、どう見てもカタギではない。
ナギは夏の終わりを思い出す。ユメリアが襲われた連れ込み宿へ足を向けた日のこと。ユメリアの顔を覚え、つけ狙っていたというのも心配だったし、一発ぐらい入れてやりたい気持ちもあった。でも、宿には誰もいなかった。隣の宿の老婆は、「知らないよ」と前置きしてから言った。
「ボリスさんとこに連れて行かれたんだろうよ。賭博だ女だって、えらく調子に乗ってたからね」
通された応接間でボリスを前して、ナギの胸に、がらんどうの宿を見たときの不気味さがよみがえった。
「君の言う通りにしたら、松が勢いを取り戻してね」
植物の話が出て、ほっとする。
「それはよかったです」
「ただ、まだ下の葉が枯れているようで……。これから気温が下がるし、心配でね」
「あの松、大切になさっているんですね」
「その昔、東洋人にもらってね。長寿と繁栄のシンボルだとか。これでも
「それは……責任重大ですね」
――松が枯れちゃったら、ナギさん、ひどいことされない?
ユメリアのことばを思い出し、ナギはやや引きつった笑顔を浮かべながら答えた。ボリスは首をふった。
「そんなに重荷に感じないでほしい。何より、ナギ君のアドバイスがなければ、松は枯れていたかもしれない」
「あれからも、松のことは気になっていたんです。見せていただけませんか」
緊張から解放されたい気持ち半分、松に早くさわりたい気持ち半分で、ナギはそう提案し、腰を上げた。
――思ったより、状態は悪くないな。
ナギは松をひと目見てほっとした。古い葉が枯れているが、これは季節によるものだろう。
「どうだね」
「いいと思います。下部分の葉が枯れているのは、自然なものです。あのとき、枯れたところをすぐに、むしってくださったんでしょう。そのおかげです」
ボリスがニッと笑った。
「うちの庭師、まあ腕は悪くないんだが……。細かい世話が苦手でね」
そんな庭師がありえるのだろうか、と思いつつ、ナギは気になっていたことを口にした。
「庭師の方は気を悪くしていませんでしたか。差し出がましい真似をしてしまったので」
ボリスが驚いたようすで、片眉を上げた。
「とんでもない。むしろ、喜んでいたよ」
――喜んでいた……?
ナギは内心、首をかしげながら、それなら、と提案してみる。
「すこしだけ、この松、手入れさせていただけませんか。この季節、古い葉を落としたほうが、害虫がつきにくい……はずです」
「頼むよ」
さっそく、松にふれる。葉をしごいてみると、古い葉が簡単に落ちた。
――本で読んだとおりだ。
たちのぼった針葉樹独特の香りを、胸いっぱいに吸い込む。ナギはその香りに陶然としながら、夢中で手を動かした。そのようすをしばらく見守ってから、ボリスは「よろしく」と言い、屋敷へ引っ込んだ。
「これ使え」
作業に集中していると、横からぬっと革製の手袋が差し出された。いつの間にか、リウが立っている。
「ありがとう」
とがった葉が手に刺さって困っていたところだったので、ありがたかった。
「なんか入用なものがあったら言えよ」
リウはそのまますこし離れたところで作業を見守った。
「なあ」
枯れた葉をあらかた落としたところで、リウが声をかけた。
「そんなにおもしろいか、それ」
「おもしろい」
ナギは即答して、気づく。そういえば、この男としゃべるときはいつからかタメ口になっているし、緊張もしない。
「ふうん」
「そんなことより、袋を持ってきてくれないか。できるだけ大きいもの」
「袋?」
「落とした葉を入れたい。」
「あー……それなら」
やがて、リウが大きな麻の袋を持ってきて、ナギが葉をまとめはじめると、手伝おうとした。
「葉がとがっているから、やめとけ。ひとりでやる」
「いてっ」
「言わんこっちゃない」
「この葉、どうするんだ」
リウが葉で刺した手を振りながら尋ねた。
「この木はもうだいじょうぶだとは思うけど……。万が一病気持っているときのことを考えると、枯れた葉はまとめて焼くか埋めるかしたほうがいい」
「あー……それなら、埋めるものがあるから、ちょうどいい。ついでにやっとくよ」
邸宅を辞するとき、ナギは思い切って言ってみた。
「害虫を防ぐために、冬は幹に何か巻いたほうがいいんです。来週、その作業をさせてもらえませんか」
「もちろん」
――やった!
その返事を聞いて、ナギは心のなかで喜びをかみしめた。
「これを……。少ないが、取っておいてくれないか」
ボリスが封筒を差し出した。
「受け取れません……。好きでやっているだけですから」
「最初のアドバイスから、立派な仕事をしてくれた。当然の報酬だ」
ナギは封筒を遠ざけながら提案する。
「じゃあ……冬が終わって、新芽が出たら。まだだいじょうぶと決まったわけじゃありませんから」
ボリスはふむ、と言って、封筒からいくばくか金を抜いた。
「せめて、これだけは取っておいてくれ。仕事をさせて、タダというわけにはいかない。こちらにも面子があるんでね」
ナギは迷いつつ受け取った。
――植物に、また、さわれた。
ナギは帰り道、松の香りがついたてのひらを見つめた。
――しばらくは、あの松のめんどうを見られる。
それを考えると、胸が高鳴った。
――でも……。
封筒の存在を思い出し、開けてみる。銀貨が何枚か出てきた。それは、ナギのひと月分の稼ぎだった。
――こんなに……。
ボリスが何者かを思い出し、ナギは現実に引き戻される。
――でも、この金があれば。
ユメリアは八百屋で安いクズ野菜を買わないでいいだろう。家賃を払った後、ふたりでひとつのフィッシュ・アンド・チップスを分け合って食べないでもすむ。ユメリアに服だって買ってやれる。
――だいじょうぶ、庭師の仕事で、ちゃんと稼いだ金だ。
ナギは不安に蓋をして、銀貨をにぎりしめ、家路をたどった。
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