川が見える窓辺で、ユメリアは物思いにふける
「気をつけてね」
「だいじょうぶですから。安心して待っていてください」
今日は日曜日。ナギが、ボリスの邸宅の松を見に行く日だ。ユメリアはできるだけいつも通りの顔をして、いってらっしゃい、と頬に口づけをして送り出した。
ひとりになるとユメリアは、寝台の端に座り、外を眺めた。窓の外では、冬の弱い光に、川面がきらめいている。工場からの排水が流れ込んで、ほんとうはあまりきれいではない川。夏は、この川からおかしなにおいがして、ナギもユメリアも辟易した。それでも、ここは風通しがよいので、なんとかがまんすることができた。
――最近のナギさんは、工場の、煙、みたいなにおいがする。昔は……。
ロマノフスカヤの屋敷でゼラニウムの花を見て、泣いてしまったとき。納屋でナギが抱き寄せて、なぐさめてくれた。そのときに鼻腔をくすぐったのは、日なたの、お日さまのにおいだった。ポカポカと暖かく、じんわりと幸せになるような、そんなにおい。あのころのユメリアが長らく忘れていたもの。お日さまのにおいなんて、最後にかいだのはいつだったろう。たぶん、母さまがまだ生きていたころ。
――このひとは、日なたのひと。日陰のわたしとは、ちがうひと。
まじめで仕事熱心で、庭師の師匠からもかわいがられていたナギ。雇い主であるアレクでさえ、その働きぶりに一目置いていた、将来有望な少年。屋敷でやっかい者扱いされていたユメリアにとって、ナギは別世界の人間だった。そんな日なたの少年を、日陰に引きずり込んでしまった。追われる身にしてしまった。ユメリアは、ずっとそんな気がしている。
――りんごなんて、あげないほうが、よかったのかな。
倒れていた男の子が、ただ、心配だっただけ。ユメリアにとって、あれは特別なことではなかった。あの行為がなければ、ナギはきっと、雇い主を斬りつけ、罪を犯してまでユメリアを助けようとは思わなかったはずだ。よかれと思ってしたことが、巡り巡って、ナギに道を踏み外させたのでは……。
――もし、わたしがりんごをあげなかったら。ナギさんは、もっといいひとに助けられて、そのまま、まともに生きて……。
でも、近ごろは、そう考えちゃいけない、と、心のどこかがささやく。それは……。
――ナギさんがくれた、この指輪。
ユメリアは、左手の薬指につけた指輪を見る。家事をするときは、できるだけ外して、大切にしているこの指輪。銀色で、青くくすんだ石がはまっている。
――そんな玩具みたいな指輪で、ごめんなさい。いつか、もっとちゃんとした指輪を。
ナギはときどき、そう言った。そのたびに、ユメリアはちょっと腹立たしい気持ちになるのだった。
――わたしにとっては大事な、大事な宝物。それなのにそんなこと、言わないで。
最近、ユメリアは気がついた。ナギにとってのりんごは、ユメリアにとっての、この指輪みたいなものなのではないか。与えた者にとっては何気なく、与えられた者にとっては、かけがえのない大切なもの。心のなかのいちばん柔らかい場所にあるもの。否定されたら、かなしくなるもの。そんなものを、もし、もし、ナギに与えられたのだとしたら――。
――すごく、すてき。
そうだとしたら、日陰に引きずり込んだ、なんて思わなくて、いいのかな、とも思う。
――でも、ボリスさんやリウさんは、きっと日なたの人間じゃない……。
ユメリアは頭をふって、その考えを追い出した。ボリスやリウのことは、考えてもしかたがない。あんなに生き生きとした顔をしたナギを、止めることもできない。
――そろそろ料理をしよう。ナギさんが帰るまでに、間に合わなくなっちゃう。
ユメリアは寝台から下り、エプロンをつけた。
冬になってよかったのは、窓を閉め切るから川のにおいが気にならなくなったことと、暖炉に火を入れるから料理がしやすくなったこと。暖炉に備えつけの鉄の置台を使い、そこで鍋を火にかければ、燃料費を気にせず料理ができる。もちろん、そんなやり方で作れるものは、シチューかスープに限られているし、時間もかかる。お屋敷にいたころに夢見た料理とはずいぶん違うものだ。それでも、野菜の組み合わせを考えたり、塩加減を工夫したり、そんなふうにして作った料理を、ナギが「おいしい」と食べてくれるのはうれしかった。
――どうかどうか、ナギさんが無事でありますように。
ユメリアは祈りながら、テーブルに向かうと、指輪を外し、じゃがいもをむき始めた。
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