はぐれないように、手をつなぎましょう

「はぐれないように、手をつなぎましょう」

「う、うん」


 街の雑踏は、まだ遠い。しかし、そのやりとりは、なかば決まり文句になっていた。ユメリアが、ナギの手に指をからめる。彼女の指がふれると、まず、心臓が一瞬跳ねる。次に、浮き立つような、くすぐったいような感覚におそわれる。なのに、しばらくすると、その手のひらの温かさなしに歩くことのほうが、不自然に感じはじめるのが不思議だった。


  休日、ふたりはなるべく外出するようにしていた。最初は、ユメリアが早く街に慣れるようにと、「訓練」の意味合いが強かった。はじめての日は、駅まで蒸気機関車を見に行って、ふたりとも、その力強さと大きさに圧倒された。

「馬車何台分でしょう、あれ」

「こんな鉄の車が、たくさん人を乗せたり、荷物を乗せたりするんだね」

ユメリアも、そのときばかりは人ごみの恐怖を忘れて見いっていた。汽車が動き出そうというとき、ナギは人ごみが少ない場所を見つけた。

「ユメリア、こっちこっち」

特等席で観察できると思ったら風下で、煙をしこたま浴びた。ふたりとも、顔がまっ黒になって吹き出した。


 ユメリアもだいぶ街に慣れてきた今、ふたりで歩くことは、単純に楽しかった。知らないフィッシュ・アンド・チップスの店をのぞいて「美味しそうかどうか」を話し合ったり、市場でりんごやベリー、すももなど、色とりどりの果物が山盛りになっているのに目を奪われたり。


「今日、何か見たいものありますか」

「うーん」

ユメリアが頭を傾けた。町娘らしく、花柄のスカーフを三角巾のようにして、髪を覆っている。

「とくにないかなあ。ナギさんは?」

「服、見に行きませんか、あなたの。そろそろ暑いし、半袖の服があったほうがいいんじゃないですか」

 ゲルバルドから何着か服は持たせてもらっていたが、いずれも夏には少々暑そうな代物だった。

「袖をね、こうしたら、なんとかならないかな」

ユメリアが、モスリンの灰色のワンピースの袖をまくるしぐさをする。

「それじゃ暑いですよ、きっと」

「じゃあ、いいお店あったら。ナギさんの夏服は?」

「俺はいいです」

ナギも同じく服を持たせてもらっていたが、服装はお屋敷時代と変わらない。サスペンダーで吊ったズボン、着古したシンプルなシャツ。寒くなったら上にセーターとジャケット。それでじゅうぶんだった。


「あ、本屋さん」

 ユメリアが目をとめた。間口の狭い店内に、天井まである本棚が何台も詰め込まれている。古書店のようだった。

「ちょっと、見ていい? お料理の本、あったらいいな」

 ユメリアがいそいそと店へ入って行く。

「俺はこっち見てますね」

 ナギは店頭にとどまり、軒先で木箱にぎっちり詰められた本を見ることにした。なんらかの理由で価格が割り引かれた本が集められており、ジャンルは歴史本、小説、医学書など、さまざまだった。そのなかから、一冊の本が目に飛び込んできた。「新世界植物図鑑」。


――なつかしい……。


ロマノフスカヤの庭師小屋で、師匠のものを借りてあきれられるぐらい何度も何度も読んだ。マツ、オレンジ、ラン……。新世界から次々入ってくる植物と、その扱い方について書かれた本。「いつかは本物を見て、育ててみたい」とワクワクした気持ちが、まざまざとよみがえった。裏の値札を見る。がんばれば買えないことはない。ただ、いまの暮らしを考えると、無駄な出費は避けたかった。木箱に戻しかけたとき、

「ナギさん、何読んでるの?」

 ユメリアに声をかけられた。

「懐かしい本があったんですよ、これ」

 表紙を見たユメリアが、虚をつかれた顔をした。ちいさく口を開き、目を丸くし、呼吸も忘れたような――。

「ユメリア?」

「わたし、もうちょっと本を見てくるね。あのね、わたしのこと、気にしないで読んでて」

笑顔をつくって、店の奥へ去っていく。


 古書店を出てからも、ユメリアのようすはおかしかった。

「今日はどこの店にします?」

 ナギは雰囲気を変えようと、明るく言った。街へ出た日は、ふたりは夕食にいろいろな店の持ち帰り料理を試した。パイやサンドイッチ、フィッシュ・アンド・チップス。どれを試しても、たいていは「ヤコブさんの店がいちばんだね」ということになる。

「あっちの通りにあった、フィッシュ・アンド・チップスの店はどうでしょう?」

ユメリアは答えない。

「ユメリア?」

「あ、う、うん、その店がいいと思う」

とりくろったようすで、「ごめんなさい、ぼんやりして」とあやまった。


 揚げ物のよい香りがする包みを持っての帰り道。街の喧騒から離れた場所まで来ると、ユメリアがぽつりと言った。

「ごめんなさい……」

「どうしたんです?」

ナギはすこしかがんで、彼女の顔をのぞきこんだ。

「ごめんなさい」

もう一度あやまって、ユメリアが涙をこぼした。

「ナギさん、庭師の仕事、できなくなった……。わたしのせいで」


ナギは即座には、何も言えなかった。庭師の仕事に未練がないと言ったら嘘になる。「いつかは」と思っているのはたしかだった。ただ、庭師の仕事は、たいていは貴族の家に住み込みだし、そうでないならツテと技術が必要だ。何より、前と同じ職に就けば、足がつきやすくなる。もうあきらめたほうがいい、と頭ではわかっている。その一方で、機会があるなら、なんでもいいから植物や土にさわりたいし、学びたいとも思う。

「あんなに好きだったのに。一生懸命だったのに」

ユメリアは泣きながら、ごめんなさい、と繰り返した。ひとつ呼吸して、ナギは言った。

「俺が選んだことです」

 それは偽らざる本音だった。

「あなたのせいじゃないよ」

 ユメリアが生きていればそれでいい、とナギは思っている。後悔はない。もしも、もしも――。考えたくないことだが、彼女がナギの知らぬうちに連れ去られ、殺されたとしたら。彼女の身に起こったことを知った時点で、あの屋敷で働きつづけることはできなかっただろう。おそらく、アレクもスミスも殺して出奔したはずだ。でも……。


――このひとに、俺が作った庭を、日向の一等地で見てもらいたい……。


ユメリアが生きてとなりにいるからこそ、そんな夢も捨てられなかった。あなたのせいじゃない、泣かないで、気にすることなんてないんです――。でも、最後はここに行きついてしまう。


――あなたがとなりにいてくれるから、俺には夢があるんです。


だから、ことばだけが頭のなかで空回りしていく。


「俺が選んだことだよ」

もう一度言ってから、「手、つなぎましょう」とうながした。

「はぐれないように」

すべての輪郭があいまいになっていくたそがれどき、ナギは涙にぬれた彼女の手をしっかりと握った。

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