少年は、生まれてはじめて誰かの胸に顔をうずめて泣いた

師匠について、庭師の仕事を学ぶ。

その合間をぬい、人の目を盗んで、少女に花をとどける。

そんな日々が、ずっとつづくのだと思っていた。


その日、少年と師匠はそれぞれ手分けして木の剪定をしていた。

少年の担当は、車寄せ。師匠は表の庭で、楡の木のめんどうを見ると言っていた。

師匠のほうが早く終わるはずなのに、いつまでたっても呼びに来ない。

少年は楡の木に近づいた。

「師匠、次は薔薇園を……」

目に飛び込んできたのは、うつぶせに倒れた師匠だった。

「師匠!」

それからはよく覚えていない。

呼びかけても体をゆすっても、師匠は返事をしなかった。

「だれか、だれか」と叫んで屋敷を駆けた。

執事を見つけて、医者を呼んでもらった。

アレクが特別に馬車を出して、師匠を街の病院まで運んだ。

しかし、師匠はそのまま帰らぬひととなった。

少年が屋敷にきて、季節が三つ巡っていた。


街外れの墓地での埋葬には、少年も立ち会った。

棺に土がかけられても、師匠の死には現実感がなかった。

喪失感が襲ってきたのは、その夜。

庭師小屋に帰ったときだった。

――また、ひとりになってしまった。

師匠はいろいろなことを教えてくれた。

庭木のこと、天気のこと、季節のこと、礼儀作法、庭師としての誇り。

細かいことは言わなかったけれど、少年がアレクや周りの人間に礼を失しても、失敗しても、陰になり日向になりかばってくれた。

誰かに「守られている」と感じたのは、少年にとって、はじめての経験だった。

少年は師匠の厚みのある手を思い出す。

鋏を握ると太い節がむっくりと浮き出た。

少年が失敗すると、「そう落ち込むな」とポンポンと軽く肩をたたいてくれた手。

ずっといっしょに仕事をするのだと思っていた。

いつかもっとしっかり仕事を覚えて、一人前になった姿を見せるのだと。

――これから、俺はどうなるのだろう。

喪失感とともに襲ってきたのは、不安だった。

この屋敷に雇ってもらえたのは、師匠がいたからだ。

アレクは新しい庭師を迎えるのだろうか。

そうなったら、少年はお払い箱になる。

――仕事を多少覚えたいまなら、誰かに雇ってもらえるだろうか。

少年は、この屋敷に来る前のことを思い出す。

――だって、ねえ。どうせ雇うなら、こっちの子のほうがいいわ。

商家の女が、さげすむような笑みを浮かべて言った。

孤児院に、丁稚に雇う子どもを探しに来たのだ。

選ばれた「こっちの子」とは、白い肌に茶色の髪、緑の目をしたトミーだった。

少年はうつむいた。

握ったこぶしは、ほかのひとより黄色い。

目にかかる髪は、カラスのように真っ黒だ。

そのとき、悟った。

――孤児、しかも移民の子どもは、だれにも選んでもらえない。

仕事を多少覚えたとはいえ、今も半人前以下だ。

自分を雇ってくれる人がいるとは思えなかった。


庭師小屋は、ひとりでは広く感じる。

少年は、よく使い込まれた剪定ばさみを手に取った。

師匠が使っていたものだ。

葬儀には、師匠の姪だという中年の婦人も参列した。

こまごまとした遺品は姪が引き取ったが、

仕事道具や帳面は、「あなたが使ってあげてください」と譲られた。

「うちに来ると、叔父はいつもあなたの話ばかりで」

遠方からやってきた姪は、長旅の疲れがにじむ目元をハンカチで押さえた。


帳面には、武骨だけれど几帳面な文字と、細密な絵で、

屋敷の植物に関する知識、手入れのコツが書かれていた。

少年は帳面をめくり、屋敷の庭木に想いを馳せた。

――この屋敷ともお別れか。

師匠とふたり、整えてきた庭。

できれば、これからも自分で世話したかった。

が、自分には圧倒的に力が足りない。それもわかっている。


そして、もうひとつの心残りは――。

――あのひとと、会えなくなる。

屋敷の外で暮らすようになれば、彼女がどうしているか、知ることはできないだろう。

ほとんど“いないもの”として扱われているのだから。

彼女に花を届けることも、もちろん叶わない。

何より気がかりなのは、この屋敷にいる限り、彼女に明るい未来がなさそうなことだった。


不安に煩悶していた夜半。小屋の扉が静かにノックされた。

最初は、風かと思った。

少年が答えずにいると、もう一度、ひかえめなノックとともに、「庭師さん」と小さな声が聞こえた。

少年は急いで扉を開く。

そこには、白いネグリジェにガウンを羽織った彼女が立っていた。

「お嬢様……」

人目をはばかり、少年はあわてて少女を小屋へ入れた。

扉を閉めると、少女がうつむいて言った。

「ご迷惑だったら、ごめんなさい。お悔みに……」

「危ないですよ」

うれしさよりも、心配が先に立った。

こんなところを誰かに見られたら、彼女は無事ではいられない。

「座ってください」

少年は少女に椅子をすすめ、自分は寝台に腰かける。

師匠とふたりで話したり、植物についての本を読んだりしたテーブル。

いまは、その席につく気になれなかった。

「ごめんなさい……。庭師さんがどうしているか気になって」

「気持ちはうれしいです」

――ランプも持たずに、どうやってここまで来たんだろう。

よく見ると、少女の髪やガウンには、枯れ葉がついている。

彼女が茂みに隠れながら、必死になってこの小屋を目指す姿が想像できた。

「ちょっと、じっとしてください」

少年は立ち上がり、少女の髪とガウンについた枯れ葉を取った。

「あまり無茶しないで」

「あの……」

少女が椅子に座ったまま少年を見上げた。

「庭師さん、だいじょうぶ……?」

彼女の灰青色の瞳に、少年が映っている。

「だいじょうぶです」

少年は反射的にそう答えた。

「お師匠さんと仲がよかったし」

「だいじょうぶですよ」

「わたしも母さまが亡くなったとき……」

「だいじょうぶです!」

はねつけるような言い方をして、自分自身、ハッとする。

そして、気がついた。

今日、何回「だいじょうぶです」と人に答えただろう。

でも、ほんとうは、そうじゃない。

俺はぜんぜん、だいじょうぶじゃなかった。

そう自覚したとき、少年のなかで何かが決壊した。

「俺は……」

その先は、ことばにできなかった。

ただ、何かがこみあげて、視界がゆがむ。

よろけるようにベッドに腰かけ、掌で顔を覆う。

嗚咽したら止まらなくなった。

隣に、彼女が座る気配があった。

最初は少年の髪を遠慮がちになで、次に泣きじゃくる少年の頭を、そっと抱きしめる。

人の温かさを感じたら、少年のなかで、さらに激しく感情がうねる。

「俺、俺は、ほんとうは……」

少年はその日、生まれてはじめて誰かの胸に顔をうずめて泣いた。

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