少年は伝えておかなければ、と思った
歩くたび、少年は体がきしむのを感じた。
内臓ぜんぶがばらばらになりそうな、いやな感覚。
体の震えは、たぶん、上着を彼女にかしているからじゃない。
悪寒とめまいと胸のムカつきは、もうごまかしきれない。
――もう少し、もう少し。せめて、やぶの中へ。
視界がだんだん暗くなる。
もはや夕暮れがあとどれぐらいで来るのか、少年には、想像がつかない。
なんとかやぶに足を踏み入れてしばらく。
「庭師さん、小屋、小屋があるよ」
彼女が声をはずませた。
――命拾いをした。
それは猟師が使う小屋のようだった。
「ここで夜を明かしましょう」
雨風をしのぐためだけに作られた、ちいさくて簡素なものだが、火打石も薪もひと通り揃っていた。
小さな暖炉に火を起こす。
土間の隅の木桶に、水が入っていた。
右手ですくい、口をつけてみる。
新鮮な味がした。
――これは……。
少年は不安をおぼえた。
それは、近い過去にこの小屋を誰かが使ったことを意味している。
そして、その誰かは、この水を捨てていかなかった。
――近いうちに、戻ってくるつもりなのではないか?
少年は、その不安を己の胸の中だけで押し殺した。
ふたりで水を飲み、それから傷口を水で洗った。
「庭師さん、こんなに……」
少女が少年の左手にふれて泣きそうな声を出した。
「なんでもないです、こんなの」
少年は強がって笑う。
世界が暗い。
手のひらに何かがたくさんついている。
少女がそれを、ひとつずつ、つまんで取っている。
馬車でガラス片を投げつけたことを、少年は思い出す。
「お嬢様も、手当てを……」
少女の上着を脱がせ、肩の傷口を見る。
かすむ視界に、血の色だけが見える。
水で流したいが、ここには体をふくものがない。
傷口をそのままにするのと、からだが冷えること、どちらが危ないのだろう。
迷った結果、少年は自分のシャツの残りを裂き、水にひたして少女の傷口のまわりをぬぐった。
少女はちいさな息をもらしたのみで、痛みに耐えた。
ふたたび彼女に上着を着せようとすると、
「庭師さん、それじゃ寒いよ」
少女は断ろうとしたが、「いいんです」と強引にその肩にかけた。
小屋のすみに毛布を見つけ、ふたりでくるまった。
暖炉の火があたたかく、心地よい。
少年は、時折、意識が遠のきそうになるのを感じた。
ただの眠気とは違う、その誘惑。
「庭師さんは、どうしてこんなによくしてくれるの?」
少女が疑問を口にしたとき、少年は、伝えておかなければ、と思った。
「俺、お屋敷に来る前に、一度あなたに会っています」
彼女が自分にとって、いかにきれいな存在かを、伝えておかなければ。
「わたしと庭師さんが?」
「あなたは俺に、りんごをくれた」
彼女は小首をかしげる。
「俺、街で行き倒れて死にかけていたんです。そこへ、あなたが来た」
少女は思い出したようだった。
「あの子が庭師さんだったの……。そう、あれから元気になったのね、よかった」
彼女の声がやさしい。
「あのりんごが、俺の命を救ってくれた。ちゃんと生きたいと思った」
いつかあなたにもう一度会ったときに、胸を張れるように。
「でも、わたしがあげたのは、りんごたったひとつだよ?」
少女が言った。
「秋のお祭りで、りんごを飾るでしょう。
だから、街じゅうのお店にあって。
あのりんごは、すごくきれいって言ったら、お店の人がくれたの」
それだけ、と彼女がつづける。
「誰だって、困っている人がいたら、助けるでしょう」
この人は屋敷から出たことがないんだな、と少年は思う。
「あなた以外にもたくさんの人が通りがかった。
でもみんな、ゴミを見るような目で……」
ときどき、ことばが出てこなくなる。
「軒下にいると、水をぶっかけて追い払われた」
「ひどい……」
少女が視線を落とす。
「あなた、俺の顔もふいてくれた」
悪臭と虫にまみれた俺を。
その行為に、自分がどれほど救われたか。
彼女に余すところなく伝えたかった。
「しかも、俺にかまったことで、あいつにぶたれてた」
「そんなところまで見られてたんだ……」
彼女は知っていたはずだ。
行き倒れにかまうことに、アレクはいい顔をしないと。
それでも彼女はりんごを差し出し、「助けてあげて」とアレクに訴えさえした。
「すごくきれいな人だと思った」
姿だけじゃない、心の在り方が。
あの後、必死で仕事を探した。
「汚いガキが」。そう言って追い払う人がほとんどのなか、庭師の師匠が拾ってくれた。
「でも、お屋敷で会って、がっかりしたでしょう。
わたし、庭師さんが思ったような女の子じゃなくて」
誰にも大事にされていなくて、納屋で押し倒されるような子で。
「そんな……!」
そんな風に、彼女のことを言ってほしくなかった。
たとえ本人であっても。
「お屋敷でも、あなた、きれいだった」
一途で、優しくて、いつも人のことばっかりで。
「今日だって、指……」
俺を助けようと、指を。
馬車のなかでも、俺をかばってくれた。
師匠が亡くなった日は、小屋にきてくれた。
だめだ、舌が上手く動かず、何も言えない。
考えもまとまらない。
もっと、もっと伝えたいのに。
「俺にはあなたが女神みたいで……」
突然、世界がぐらついた。
――俺が……俺が今、ダメになったら……誰が……守る……。
「庭師さんっ、庭師さん……」
視界とともに、彼女の声がフェードアウトしていく。
少年の意識は、深い深い闇に落ちた。
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