逃げきれなくてもいい。絶対にあなたを置いていかない

回転のたび、肩に、背中に痛みが走る。

馬車から飛び出したときに目に入ったのは、山林だった。

木に激突しないことを祈りながら、少女を抱きしめ、少年は斜面を転がり落ちた。


どれぐらい回転していたのか。


草をかきわける音がして、永遠にも等しかった時間が終わる。

斜面が尽きると、広大な草原が広がっていた。


少年はそっと腕をほどいた。

彼女がぎゅっと閉じた目を開ける。


「庭師さん……」


「よかった」


ため息をひとつつく。


「いま、手、自由にします」


腰につけている道具入れに、裁ちばさみがないことに気がついた。

どこかで落としてしまったのだろう。

ずた袋は、馬車に置いてきてしまった。

師匠がのこしてくれた帳面や、なけなしの給金。

すべてなくしてしまったことを、少年は悟る。

それと、御者――。

あの御者はどうなったのだろう。

彼がいなかったら、ふたりとも、いまごろ……。


――いま考えることじゃない。


ポケットをさぐると、ナイフが見つかった。

師匠がくれたナイフ。

お屋敷で彼女に薔薇を持って行ったとき、このナイフで棘を削ったことがあった。

そんなことが、ひどく遠くのできごとに感じられた。


「少し、じっとしてください」


はれ上がった指にさわらないように気を付けながら、彼女の手を縛る縄にナイフを入れる。

鎌を突き立てられた右肩は血だらけだ。

転がっているとき、どれだけ痛かっただろう。


少年は上着を脱いで自らのシャツを裂き、少女の肩に巻く。


「うっ」


少女がくぐもった声を出した。


「すこしだけがまんして」


布を、できるだけきつく縛った。

それから、少女に自分の上着を着せる。

腕を通させ、ボタンをとめた。


風が草原をわたり、さわさわと音をたてた。

遠くで鳥が鳴いている。


もう少し、頑張ってもらわなければ、と少年は思う。

安全なところに着くまでは。

でも、安全な場所なんて、どこにあるんだろう?


「歩けますか?」


たずねると、少女が自信なさげにうなずいた。


あたりを見回す。

丘陵地に囲まれたすり鉢状の場所に、草原はあった。

少年は、来た方向を振り返る。

今のところ、誰かが追ってくる気配はない。

しかし、スミスが生きていたら。

屋敷の人間が追っ手を差し向けたら。

なるべく早く、遠く、ここから離れなければいけない。


「できる限りでいいですから、速く」


少女の手を引き、草をかきわける。

向こうに見える藪から山林へ入れば、なんとか足取りを隠せるだろうか。

ときどき、せり上がる吐き気を抑える。


少女は右足を引きずるようにして歩く。


「足、痛めたんですか?」


「ごめんなさい、すこし前、あのひとのところで……」


少女が言いづらそうにした。

少年は唇を噛む。


――あいつのところで、何を……。


彼女の息がどんどん上がって、ペースが落ちていく。

少年は不安をかきたてられる。

もし追っ手に捕まったら。

きっとふたりとも、死ぬよりひどいことをされて殺される。


――せめて、彼女だけでも。


知らず知らず、彼女の手を強引に引いている。


日が傾きかけたころ、


「わたし、もう動けない……」


彼女がへたりこんだ。


「もう少しです」


少年が差し出した手を、彼女は取らない。


「せめて、あの藪のところまで」


「わたし、もうここでいい……」


「どうして」


「庭師さんだけ、逃げて」


彼女の瞳が涙にぬれている。


「わたしと一緒だと、きっと逃げ切れない」


少年はしゃがみこみ、彼女と視線を合わせる。

少女がかぶりをふった。


「わたし、もういいの」


早く逃げて、そう言って彼女が泣いている。


「アレク様に捨てられて、庭師さんにも迷惑かけて。だから、もういい……」


「だめです」


彼女の肩に手を置く。


「あなたが歩けないなら、抱いても、背負ってもいい」


「そしたら、庭師さん逃げきれない」


「逃げきれなくてもいい。絶対にあなたを置いていかない」


少年はまっすぐに少女の目を見た。


「あなたがここにいるなら、俺もここにいます」


やがて、少女が立ち上がった。


「ごめんなさい……」


「謝らないでください」


またふたり、歩き始める。


「それと」


少年は言った。


「迷惑、じゃないです。俺はずっとこうしたかった」


あなたがそう思っていなくても、俺は。

心の中だけで、少年は思う。


「でも、庭師さんを巻き込んだのは、わたしなの」


彼女が言った。


「アレク様があの人をお屋敷に連れてきて、わたし、怖くて、どうしていいかわからなくて。庭師さんならって」


「それで、あの小屋に?」


少女がうなずく。

もし、俺のことを思い浮かべていなければ?

彼女がおとなしく、あるいは有無を言わさず連れて行かれていたら?

あのとき、小屋に戻っていなければ?

その未来がありえたことに、少年は背筋が寒くなる。


「でも、間違ってた。わたしのせいで、庭師さん、ひどいことされて……」


彼女が泣きじゃくった。


「ごめんなさい。あの夜、あんなことを言ったのに。都合のいいときだけ」


「俺は」


彼女の言葉をさえぎり、


「巻き込んでもらってよかったです」


断言する。


「あなたが俺の知らないうちに連れて行かれて、どこかで死ぬまでいたぶられる。

そんなのは耐えられない」


処分、という言葉を思い出す。本当に耐えられない。


「都合よくていいです。あなたが他のやつのこと、好きでもいい。

自分が殴られるのも蹴られるのもかまわない。

でも、あなたが踏みにじられることは、俺には耐えられない」


この先は、俺が誰にも踏みにじらせはしない。

それからは、ふたり、だまって歩き続けた。

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