朝2
目の前で、妹がぎゃんぎゃんわめている。さみしかったとか、置いていかれたと思ったとか。
――えらく元気だな……。
サーガは他人事のように思う。モンスーンの国で、チンピラの女はたくさん見た。たいてい殴られて、からだを売らされて、だれかが引き離そうとしたところで、「あのひとはなんだかんだやさしい」とか言ってのける。そして、チンピラはしつこい。食い物にできる女を手放そうとしない。ナギがどんな男かは知らなかった。ただ、チンピラの情報網に引っかかってきたからにはチンピラだ。妹を連れ出そうと思っていたけれど……。
「悪かった、だから悪かったよ」
あやまりつつ、10年以上ぶりに会う妹を見る。まあなんだ、ヤクザ者につかまって非道いことをされているようすではない。ぜんぜん、ない。
それより――。サーガは数時間前、深夜のことを思い出す。
ユメリアをさらって、あのいかがわしい劇場を出たあと――。
サーガは妹を背中にかついで屋根を渡り、走っていた。途中で息が切れて、しっかりと背負いなおす。
そろそろ地上に降りなければならない。サーガは煙突の横に、はしごを見つける。降りる前にちょっと考えて、妹のスカーフと自分のスカートのすそを裂いてむすんで紐状にした。たすきがけにして、妹のからだをしっかりと自分に密着させる。
一段一段、手にも足にも神経を巡らせてはしごを降りる。大人になった妹のほおが、うなじにふれた。
そのとき、突然思い出した。
――いつだったか、同じようにこの子を背負った。
どうして忘れていたんだろう。
はぁ、はぁ。幼い自分の吐息がよみがえる。
月が明るい晩、サーガは石造りの塔に手をかけてのぼっていた。目指す部屋は、三、四階ていど。いまなら造作なくこなせる気がするが、まだ幼かったサーガにとって、けわしい道のりだった。
指先が、爪が痛い。でも、やめるわけにいかない。チャンスは今夜だけ。
こんなこと――塔に幽閉された妹を連れ出すことができるのも、自分だけだ。
気配に気づいたのか、妹が窓から顔を出す。
「姉さま!」
いっぱいに見開いた目を、輝かせて。
「よっ!」
サーガはなんとか平気なふりをして登り切り、部屋に入った。大きめの寝台に、テーブル、椅子。必要最低限のものしかないものの、部屋はこざっぱりと整えられていた。
「元気にしてたか? てか、また熱出したんだろ?」
寝台の上に、姉妹並んで腰かける。
「もう平気!」
顔色がよくない妹が、笑う。
「今夜はどうしたの?」
「ひさしぶりに会いたかったから」
会いたかったと聞いて、妹がうれしそうにするのがわかる。
ネグリジェ姿の妹の隣で、たあいない話をする。剣の稽古の話。いとこの話。母親の話になると、妹はちょっとべそをかく。
「母さま……」
幼く丸い手で涙をぬぐって、顔を上げる。
「でもね、がんばってもっと“見える”ようになったら、ここから出て、母さまにも会わせてもらえるって。もっとがんばったら、きっとお熱だって出さなくなるし」
胸が痛む。
「ねっねっ、いつか姉さまが『かとく』をつぐんでしょう。そのころには、ユメリア、たくさんたくさんいろんなものが“見える”ようになってるから! 姉さまのお役に立つの!」
そのくもりない笑顔に、サーガは胸をつかれた。
いままで、長子の自分が家を継ぐのは当たり前だと思っていた。
大人になっても、この家に残る。どこかの男を婿に迎えて、家を継ぐ。当主としてこの子を、“使う”。
妹が何を見ているのか、実のところサーガは知らなかった。過去や未来や、遠くのものが見えるなんて、わかりたくもない。汽車が走り、電報ってやつが打てる時代に、ご宣託? そんなバカバカしいことをサーガは信じたくなかった。もし何か“見える”として、そんなものに頼るべきじゃない。
でも、妹は何かを“見た”と言い、そのたびに熱を出す。何かを引き換えにしていることだけは、わかる。それを父は喜び、この子は「お役に立てた」とうれしそうにする。
いつか大人になってサーガが当主となり、無理がたたってユメリアの命が尽きる日がきたとしても、妹は、「姉さまのお役に立ててよかった」と笑顔で言う。
――この家に残るのは、そういうこと。
サーガは愕然とした。
やっぱり母さまは正しい。今夜のことは、ぜったいに成功させなければいけない。
だから、サーガは激しくわきあがった感情を押し殺して、うそをつく。
「ユメリア、ちょっと外に出よう。姉さまと夜の散歩」
「でも、お外に出たら父さまに怒られちゃう」
「ちゃんとばれないようにするから」
言いくるめて、用意してきたロープを寝台の足にくくりつけ、窓の外に垂らす。ユメリアを背負い、おんぶ紐でしっかりと背中にゆわえた。
「しっかりつかまってろ」
妹の体温を背中に感じながら、ロープをつかまり降りた。
「こわい……」
「ぎゅーってつかまっとけ、ほら、首のところに手をやって」
妹がしがみつく。重い。ロープとの摩擦で、手のひらの皮がむけるのがわかる。妹に苦しみをさとられないように、歯を食いしばる。
そのあと、城の北の森を抜けて母と合流し、港まで歩き通しに歩いて、西の国へ行く船に乗った。
暗い船のなかで、母はサーガの手に包帯を巻いてくれた。
「サーガ、あなたには苦労をかけて……」
サーガはただ、首を横にふった。妹を“使う”。そうでなくても、あの家にいるかぎり、だれかを踏みにじること強いられる気がする。そんな未来はまっぴらだった。
「外へ出たら、ユメリアは……ふつうに?」
母は沈んだ瞳で下の娘を見た。
「たぶん。この子の“目”は、この国の神さまから授かったものだから」
母親のひざに頭を乗せ、すうすうと寝息をたてる、ちいさな妹。ほっぺたに涙のあとがついている。さっきまで、自分ががんばればみんなのお役に立てる、だからお城に戻ると泣き叫んでいた。
守ってやるとかそんなんじゃない。ただ、この子がわけのわからないものを“見る”のも、誰かに利用されるのも嫌だ。
なのに――。
サーガは大人になった妹を背負って、はしごを降りきる。電撃に打たれたように思い出す。
なのに――。
この子は、この国へ来ても、何かを見た。あまつさえ、「姉さまのそばにいると“見える”」「お役に立てる」と言った。
小川のほとりで、妹が「かえるがいる!」と指さした石の後ろ。ユメリアが去ってからそっと確認したら、大きなかえるがひくひくとのどをふるわせて座っていた。
だから母親が死んだあと、商人を名乗る男に声をかけられたのは、渡りに船だった。
ユメリアは、ミハイルとかいうあのおっさんのもとで、貴族の娘として生きる。どこかで王子さまを見つけて、ふつうに、しあわせに。
きっと、そうなる。自分がユメリアのそばにいなければ――。
――どうして忘れていたんだろう。
「聞いてますか! 姉さま!」
サーガはいまに引き戻される。
すっかり育った妹が、胸倉をつかみはじめた。縛られた姉に対してやることか、というほど激しく揺さぶっている。暴力に慣れていないヤツはかえって危ないことをする。
揺れる視界のはしに、黒髪の男が映る。ナギとかというあの男。腕っぷしは弱くて、なのに必死で、「愛するひとのお姉さん」とか、なかなか気持ち悪いことを言っていた。
――そうだな、わたしが、ユメリアのそばにいなければ――。
10年以上の時を経て、サーガはふたたびそんなことを思った。
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