ふたりは並んで足を踏み出した
不思議な夜だった。ナギはその後の人生で、しばしばその夜のことを思い出した。
木々が枝をのばす山道を、馬で駆ける。春近い満月の夜、空気は冷えているが、慣れない乗馬に緊張する身には心地よかった。前方には、手綱を握るゲルバルドと、その背中にしがみつくユメリアの後ろ姿。力強く土を蹴り上げる馬の脚、揺れる栗毛のしっぽ。ユメリアの銀色の髪が、闇のなかで白っぽく浮いて見えた。それは月の光のせいなのか、先導するゲルバルドの背を集中して追っていたがゆえの印象なのかはわからない。ナギは暗闇のなか、灯火のような彼女の髪を目印にして、夜を駆けた。
途中、森が開けて、ヒースの野原が広がった。月の光に照らされたヒースは、一面の雲を思わせた。風が吹くと、ヒースが薙ぎ、前方で銀色の髪がきらきらと光る。
乗馬の経験にとぼしい自分が、どうして夜っぴて、馬に乗って駆け抜けられたのか。馬のことも、森や山のことも熟知しているはずのゲルバルドが、どうしてナギにそれができると信じていたのか。振り返ると、何もかもが夢の中のできごとだったような気がする。
一度だけ、川のほとりで馬に水を飲ませて休ませ、夜明け前には目的の駅逓近くへ着いた。山道で、馬を降りる。
「あれが駅逓だ」
斜面の下に、ガス燈に照らされた木組みの建物が見えた。馬のいななきが響く。馬車につけかえる馬が待機しているのだろう。
「駅馬車が来たら、金がないから屋根に乗せてくれと頼め。お前たちのなりなら、そのほうが不審に思われづらい」
ナギは背負っていたユメリアのトランクをおろす。鞍につけて運んでいた自分用のずた袋を地面に置くと、ちゃぷっと水音がした。ずた袋の中に手を突っ込み、酒瓶が割れていないことを確かめる。一昨日、最後の診察に立ち寄った医師から渡されたものだ。
「これ、何かと役に立つよ。すごくアルコール度数高いから、傷の消毒もできる」
医師は、ユメリアの指に包帯を巻き直しながら言った。
「ほんとうは君の爪が生えそろうまでって思っていたけど、そうもいかないね。あとすこしなんだけどね」
医師はさみしげに言った。
「骨はどうかな?」
ユメリアがゆっくりと左手の指を動かす。
「くっついてきているね。もう固定する必要はないけど、旅の間は無理しないように、包帯を巻いておいて。街へついたら、無理のない範囲で、すこしずつ動かしていってね」
医師が道具をしまい始める。
「本当にありがとうございます」
並んで礼を言うナギとユメリアに、医師はほほえんだ。
「せっかく助かったんだ。人生を楽しむといいよ」
結局、ゲルバルドがどうして自分たちをかくまってくれたのか、わからずじまいだった。屋敷を出発する前、マデリンはユメリアを強く抱きしめた。最初こそ驚き、体を固くしていたユメリアも、すぐにマデリンの体に腕を回した。
「どうか、どうか、お元気で」
長く抱擁した後、メイドはナギの手を握った。
「お嬢様をよろしくお願いします」
ナギはただだまってその手を握り返した。冷たく、思ったよりもずっと線が細い手だった。
馬に乗った後、ナギは一度だけ振り向いた。マデリンは、目に光るものをたたえながら、手を振っていた。たぶん、馬が見えなくなるまで、ずっとずっと。見なくとも、ナギにはそれがわかった。
――そういえば。
マデリンからは、「目的地についたらこれを、こちらは道中で」と、包みを二つ持たされていた。片方にはサンドイッチが、片方には、パンと、そして真っ赤なりんごが四つ入っていた。
三人でサンドイッチを食べた後、ゲルバルドが懐からスキレットを出してあおった。夜明け前の冷たく湿った空気に、強いアルコールのにおいが立ちこめる。
「飲むか」
ナギは差し出されたスキレットに口をつけた。ジンが喉を焼き、体をほてらせた。ユメリアもすすめられるままにひと口飲んだ。
「そろそろ行け」
ナギはずた袋を背負い、ユメリアはトランクを持った。
「あの」
ユメリアが何かを言いかけると、並んだふたりを、ゲルバルドが正面から抱擁した。ナギはそっとユメリアをうかがう。彼女も、抵抗なくそれを受け入れていた。
「ナギ、ユメリア……」
ゲルバルドが、噛みしめるように名を呼んだ。
「達者で暮らせ」
「あの、わたしたち、なんとお礼を……」
「ここでのことは忘れろ。街で困ったら、わたしの名を出せ。紹介状を渡しただろう。存分に名を使って、暮らしが落ち着いたら忘れろ」
「せめてお手紙を書きます」
震える声で言うユメリアに対し、ゲルバルドは厳しい声で言った。
「ならん。いつどこで足がつくかわからん」
「いつか、このご恩は……」
ナギのことばを、ゲルバルドがさえぎった。
「何度も言わせるな。恩を返したいなら、ふたりで幸せになれ」
「……どうして……そんな……」
ナギは抱擁するゲルバルドの腕を握って問うた。それには答えず、ゲルバルドは体を離した。
「さあ、もう行け。人に聞かれたら、山道の途中で夜を明かして歩いてきたとでも言え。振り返るな」
「……ありがとうございました……」
「ゲルバルドさんも、どうか、どうかお元気で」
それだけを伝え、ふたりはゲルバルドに背を向ける。涙をぬぐい、並んで足を踏み出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます