「ナギさんの、心臓の音がする」

 次の日の朝。寝不足の目をこすりながら、食事の時間にふたりは顔を合わせる。

「おはよう、ナギさん」

「おはよう」

挨拶をして、ふたり、なんとなく目をそらす。


 昨夜は、いろいろなことを話した。ユメリアは、「ときどき消えちゃいたくなる」と言った。

「ゲルバルドさんやマデリンさんが親切にしてくれることも申し訳なくって」

「それは俺も同じ気持ちです。一度、ゲルバルドさんに聞いてみませんか。そろそろここを出ることを考えないといけないし」

 今後のことは、どうすればよいかわからなかった。ただ、できるだけ遠くまで行き、どこかの街に身を隠してはどうだろう、とふたりで話した。


 月も傾きはじめ、そろそろ部屋に帰ろうと立ち上がり――。

ナギは思い切って言ってみた。

「あの、その……抱きしめてもいいですか」

なにか彼女をつなぎ止めておくものがほしかった。消えてほしくない、と伝えられるなにか。

「怖いのは、わかっているので」

両腕を広げて見せる。

「俺、動きません。こうしたらどうかなって」

 ユメリアがすこし考えてからナギに近づき、その胸に頬をつけた。しばらくして、ユメリアがナギを見上げて言った。

「ナギさんの、心臓の音がする」

泣いた後でまぶたははれぼったいけれど、灰青色の瞳は輝いている。ナギはいつか、ロマノフスカヤの屋敷で感じた熱情を思い出した。この人を抱きしめたい、さらいたい、口づけたい、自分のものだけにしたい――。ちいさなぬくもりを抱きしめたくなるのを、ぐっと耐える。やがて、ユメリアが、ナギの体にそっと両腕を回した。

「毛布にくるまってるし、平気かも」

 ナギは彼女の体に腕を回す。最初はそっと。そして、ぎゅっと。

 月の光のもと、ふたりの影が重なる。お互いが、お互いの腕のなかにいる――。そのことを、静かに感じていた。


 そして、今。


「ね、ねむいね、ナギさん」

「そうですね……。昨日はよく眠れましたか?」

「う、うん」

ふたりはぎこちなく会話をかわす。

――て、照れくさい……。

 お互い、目を合わせてはそらし、朝食の片づけが終わったころ。

「マデリン、ちょっといいか」

 平穏な時間は、いつにもまして険しい顔をした、ゲルバルドの来訪によって破られた。

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