あなたじゃなきゃ嫌だ

 夜中、ナギは寝つけずにいた。 

 今日は結局、ユメリアは部屋から出てこなかった。マデリンはナギに「なにかあったんですか、あなたたち」と一度だけ尋ねたが、ナギが言葉を濁すと、それ以上は聞かなかった。最近では、医師の診察もほぼ経過観察のみ。数日に一度の来訪で、今日はここには来ない。彼女のことは気にはなるが、食事以外、顔を合わせるチャンスがない。


 お昼前、ユメリアの部屋をノックした。彼女からは「なんでもないの」と返事があった。湖で見た何かをあきらめた表情、「なんでもないの」。ナギの心に不安がよぎった。ロマノフスカヤ家で見たものと同じだったから。ナギの心には、いまも後悔があった。


――強引にでも、もっと早くあの屋敷から彼女を連れだせばよかった。もっともっと踏み込めばよかった。


だから、思い切って、扉を開けた。結果、ナギが目にしたのは、おびえた彼女の顔だった。その後、閉め出されたことより、ナギにとっては、ユメリアの表情がショックだった。


――俺は、あのひとに嫌われるようなことをしただろうか。


 はじめてナギさん、と呼んでくれたあの日の笑顔にくもりはなかったはずなのに。

何度目かの寝返りを打ったナギは、かすかな物音を聞いた。忍びながら、誰かが廊下を歩いていく。最初は彼女がかわやへ行ったのだと思っていた。ただ、足音は遠ざかったまま、戻ってこない。


 ナギは寝台からはね起き、廊下に出て、窓から外をのぞく。滞在している北塔の裏側には城壁があり、そのすぐ外には森が続く。月が明るい晩、小さな背中が城壁の扉を開き、その外へ消えていくのが見えた。ナギはランプを手に、階段を駆け下りる。


 ほどなくして、森の中を歩いている彼女を見つけた。ランプひとつを手に、よたよたと進む姿は、いかにも心細げだった。


「待って」


ナギが声をかけると、ユメリアが振り向き、すぐに走り出した。体が左右に不自然に揺れ、右足をまだ痛めていることがわかる。やがて、ユメリアが木の根に足を取られて転ぶ。


「大丈夫ですか」


駆け寄って手を引こうとすると、彼女が悲鳴を上げて飛びすさった。ナギは傷つきながらも、距離を取る。


「立てますか?」


座り込んだまま、彼女が泣き出した。ふれるわけにもいかず、ナギは彼女の手から放れ、転がったランプを拾いあげた。幸い、火は消えている。


 しゃくりあげるユメリアを離れた場所からしばらく見守り、ナギは「とりあえず戻りましょう」と声をかける。ナギがランプを持って先導すると、彼女がついてきた。ナギはホッとする。

 裏庭には、ちいさなベンチがあった。そこにユメリアを座らせる。ナギは「絶対、絶対、待っていてくださいね」と念押しをして、部屋から毛布をもってきて渡した。


「ナギさんは……寒くないの?」


かすれた声で、ユメリアが尋ねた。


「俺はだいじょうぶです」


毛布にくるまり、ベンチに置いたランプに照らされた彼女は、とてもちいさく見える。ナギは、ベンチの前の切株に腰を下ろした。


「俺は、あなたの気持ちが知りたいです」


ナギは単刀直入に切り出した。


ユメリアが一瞬、顔を上げ、ナギと目が合うと、また視線を落とした。胸の前でぎゅっと毛布を握っている。


「この間、湖で言ったこと。だめならだめで、俺、かまいません」


ユメリアが苦し気に唇を噛む。


「助けたから、とかそういうことは気にしなくていいです。俺のこと、好きじゃなくても……」


「……違う!」


耐え切れない、といった表情でユメリアがさえぎった。


「大好きだから、嫌なの」


ユメリアが訴える。


「ナギさんのこと、好きだから、大好きだから、こんなわたしをあげたくないの。そばにいちゃいけないの」


彼女が堰を切ったようにまくしたてた。

 わたし、体にたくさん傷があるの。着替えするたびに、死にたくなるの。こんな体、ナギさんに見られたくないの。わたし、いろんなひとに、いろんなことされたよ。あのスミス様って人だけじゃないの。その前に、ほかの人にも抱かれたの。ナギさんにとても言えないようなこと、たくさんされたの。汚れてるの。わたし、ナギさんにふさわしくないの。それなのに、ナギさんの人生をめちゃくちゃにしてしまった。

 言い終わると、大粒の涙を流した。ナギは思わず、ユメリアの手を取ろうとする。とたんに、彼女がびくっとからだを引いた。


「ごめんなさい」


ユメリアが嗚咽する。


「最近、さわられるのがすごく怖いの。いままで平気だったのに」


震える肩が痛々しかった。


「ナギさんは優しいし、わたしがいやがることはしない。わかってる。でも、アレク様に乱暴にされたこと、スミス様やほかの人にされて怖かったこと、どうしても思い出してしまう。ほんとは最近、お医者様にさわられるのも怖い」


ユメリアが小さく息を吐いた。


「この前まで平気だったのに。わたし、どんどんだめになる。だから、わたし、明日出ていきます」


「なんでそうなるの!」


「こんなんじゃ、ナギさん、わたしのこと抱けない。一緒にいても、いいこと、なんにもない」


「いいことって……」


「ナギさんは優しいから、気にしないって言ってくれるかもしれない。でも、わたしは嫌なの。わたしが怖がって、ナギさんが傷つくのを見るのも嫌。ナギさんいい人だもの。きっともっとすてきな女の子が……」


「俺のことを勝手に決めないで!」


ナギは腹が立った。


「ほかの女のひとのことなんて知らない。俺はあなたでなきゃ嫌だ。それと、抱けるとか抱けないとか……俺はあなたの体が目当てじゃない」


「そう言ってくれることが、つらいの。わたし、価値なんてないの。汚いの。みんな言ってたよ、あばずれだって。男の人に抱かれて、痛いことされるくらいしか価値がないって。それなのに、ナギさんを悦ばせることもできない」


「誰が……誰があなたにそんなこと言ったんです」


ナギの手が、怒りで震える。


「みんなだよ。アレク様も、スミス様も、ほかの人たちも、みんな」


 ナギさんがせっかく助けてくれたのに、こんなわたしでごめんなさい。彼女が泣きじゃくる。ナギはロマノフスカヤの屋敷で、外へ行こうと言った日の無力感を思い出す。あのときは、彼女の中の「アレク様」に勝てなかった。彼女の想いに報いず、踏みにじった男に勝てなかった。またか。俺の言葉は届かないのか。この人を蹂躙した奴らの言葉に、行為に負けるのか。胸が詰まって、何も言えない。何か彼女に言葉をかけたいのに。


「俺にとって、あなたは女神なのに」


おかしなことを言ってしまったと思う。しかし、それはナギにとって、変わらぬ真実だった。


「あなた、俺に人生を与えてくれたのに。こんなにきれいなのに」


涙が流れた。泣くなんて情けない。ただ彼女に「大丈夫です」と力強く言えばいい。

それなのに、彼女の傷の深さが、少年の心の柔らかいところをえぐりとっていく。


「わたしがあげたのは、ただのりんごだよ」


「あなたにとってはただのりんごでも、俺にとっては命だった」


それは譲れなかった。


「りんごをくれたときだけじゃない。あなた、ずっときれいだった」


花を見て笑う彼女、アレクに振り向てほしいと泣いていた彼女、身の危険を顧みず、庭師さんを放してあげてと懇願する彼女。見たくない姿も多かったけれど、それでも彼女はナギにとって、いつもきれいだった。その懸命な姿が、少年の心を打った。


「俺はあなたに、何もできないんですか……?」


「ナギさん、わたしを助けてくれた」


ナギはかぶりを振る。


「これからのあなたの人生に、です。俺のこと好きなら、好きでいてくれるなら……」


ナギ自身、予想しなかったことばが転がり出た。


「俺を置いていかないで」


すがるような口調に、自分でも驚く。情けないことを言ってしまった、と思う。それでも、他に言うべきことは見つからなかった。ユメリアがナギをじっと見た。ふたりは互いを見つめ続ける。その果てに、彼女が聞いた。


「わたしで、いいの?」


ナギはうなずく。


「あなたじゃなきゃ嫌だ」


ユメリアがうつむいて、少し笑った。


「ナギさんに、『あなた』って呼びかけられると、うれしい。なんだかちゃんとした人間になれた気がする」


「これから、いくらでも呼びます。何回だって、何万回だって」


「ありがとう」と言ってから、ユメリアがおずおずと手を伸ばす。


「動かないで……」


ナギの手を、そっと自分の手で包みこんだ。


「自分からさわるのは、平気かも」

「無理することないです」

「わたしがナギさんにふれたいって思ったの」


そのまま、しばらくお互いの体温を感じている。静かな時間の後、彼女が笑って言った。


「でも、わたし、女神じゃないよ」


「知ってます。女神は木の根っこにつまずいたりしません」


ユメリアが「ひどい」と笑う。一緒に笑いながら、ナギは思う。でも、やっぱりあなたは俺の女神なんだ。

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