俺はこの人を守っていけるのだろうか
馬車が揺れることが少なくなった。よく整備された道の向こうに、巨大な煉瓦造りの建物が見える。ふたりが目を丸くしていると、
「工場だよ。毛織物を作ってる。スーツとかツイードとか」
と、乗り合わせた労働者風の男が教えてくれた。住宅がひしめくエリアを抜け、やがて道は石畳へと変わった。連なる屋根の向こうに、今度は時計塔が姿を見せる。
「あんな高い建物、はじめて見ました」
「わたしも」
このときばかりは、ふたりとも馬車旅の疲れを忘れ、新しい街の風景に夢中になった。
リュートックに着いたのは、昼下がりだった。
「こんなに人がたくさんいるの、はじめて見た……」
田舎育ちのふたりはともにあっけに取られたが、ことにユメリアは気おされていた。
「離れないでくださいね」
言わずとも、ユメリアはナギの腕をつかんで離さなかった。
「ねえ、おふたりさん、お土産、見ていかない?」
よく日に焼けた客引きに声をかけられると、彼女は小さな悲鳴を上げて、ナギの後ろに隠れた。
「ありがとうございます。けっこうです……」
ナギが穏当に断りを入れる。彼女の息が荒い。ナギは人気のない路地でユメリアをしゃがませ、自分もそこに並んだ。ユメリアは、膝に顔をうずめてつぶやいた。
「こわい……」
「ユメリア」
名前を読んで、自分のほうを向かせる。
「俺を見て」
ユメリアが涙にぬれた瞳で、ナギを見る。
「息、長く吸って」
戸惑いつつも、彼女が小さな口を開け、息を吸う。
「止めて。こんどはできるだけ長く吐いて」
何度か息を吸って吐いてを繰り返すうち、ユメリアが落ち着いてくるのがわかる。震えが止まっている。
「もう少し休んだら、早めに宿を取りましょう」
いちばん安いのは、一フロアに寝台が並ぶ、いわゆる雑魚寝の宿だ。昔、ロマノフスカヤの屋敷に雇い入れられる前日、ナギは師匠と一緒に泊まったことがあった。目をつけた宿に入ると、入り口開けてすぐの寝台で少年と少女が同衾し、「お兄さんとお姉さんもまじらない? 半額になるしさ」と手招きした。瞬間、ナギは扉を閉めた。故郷の村とこことでは、治安が違う。
人に「宿が多い」と聞いてふたりがやってきた場所は、街はずれ近く、小汚い通りだった。
「うちは満室だね」
何軒かに断られた。宿は繁盛しているように見えず、理由はよくわからない。五軒目の宿では、帳場の男が「今日は泊められない」と言いかけたところで、ナギの後ろにいるユメリアに目をとめた。宿帳をめくり、「いや、空きがある。狭い部屋になるけど、一泊でいいかい」と笑って言った。うながされるまま宿帳に記入しようとしたナギは、嫌な予感がして顔を上げる。男がユメリアをなめまわすように見ていた。
「やっぱりけっこうです」
ナギは彼女を連れ、宿を出る。気のせいかもしれない。街に出て、自分も神経がたかぶっているのかもしれない。それでも、彼女を守れるのは自分しかいないと強く感じる。
「ナギさん、どうして」
「後で話します」
背後を振り返ると、男が店先に出て、ナギたちを見ていた。なるべく早足でその場を立ち去る。
「あの男、最初は断ろうとしたのに、あなたを見て言うことを変えました」
「わたしを?」
「気のせいかもしれない。でも、宿の人間なら部屋の鍵だって持っています」
ナギの手にじっとりと汗がにじむ。
――彼女を安心して泊まらせてやりたい。
そう思って目をつけた比較的こぎれいな宿は、のちのちの生活を考えると、とても高くて泊まれなかった。結局、路地の奥、濁ったどぶ川のほとりに建つ宿で、部屋が取れた。帳場の老婆が投げてよこした鍵を持って、きしむ廊下を進む。寝台だけがやっと入る、うなぎの寝床のような部屋。荷物を下ろし、マントを脱いで、寝台に隣り合って座った。ユメリアがナギの胸に頭をもたせかける。
街を歩いていて、ユメリアが知らない人間、それも男を怖がっていることがあらためてわかった。それでも、帳場の男の視線には気づかなかった。彼女の傷と無防備さが、ナギを不安にさせた。そして、金がないと彼女を安全なところに泊まらせてやることもできない。
――俺はこの人を守っていけるのだろうか。
「ナギさん」
ユメリアが自分のほうを見て、息を深く吸い、止めて、ゆっくりと吐いた。しばらく繰り返して、「これ、落ち着くね」と弱々しく笑った。
「落ち着くおまじない。孤児院で、年上の子に教えてもらったんです」
ナギも同じように、息を深く吸い、吐いてみた。気分がいくぶんかマシになったような気がする。
「ナギさんは、どうして孤児院にいたの? ご両親は……?」
ユメリアが珍しく昔のことを聞いた。
「わかんないんです。赤ん坊のときに、孤児院の前に捨てられてたって聞きました。前に見せた、あの名前を書いたメモと一緒に、箱に入れられて」
「そう……」
ユメリアがうつむいた。
「でもまあ、この容姿ですから、移民なんでしょうね。ヤナギ・シノノメって名前は龍の国よりずっと東の国のものらしいです」
二本の棒を使って食事しろとか、さんざんからかわれましたね、とナギがつとめて明るく言う。
「親が生きてるなら、会ってみたいって気持ちはなくはないです」
「わたしも、もしナギさんのお父様やお母様に会えるなら、会ってみたい」
「子を捨てる親ですからね、どんな人間だか」
「なにか事情があったのかもしれない」
ユメリアがナギの手に、自分の手を重ねた。
「ユメリアは、あのお屋敷に来る前は、お母さんと暮らしていたんだっけ?」と、ナギは話題を変えた。
「母様と、姉様と。母様が病気になって亡くなって、わたしたち、別の人に引き取られて、姉様とはそれっきり」
「お父さんは?」
ユメリアは首を振った。
「母様はわたしたちを連れて、父様のところから逃げたの。困っているところをミハイル様に助けてもらって……。最初は、ロマノフスカヤの領地のはしっこのちいさなお家で、三人で暮らしてた」
ナギは意外だった。なんとなく、彼女の父親は故人で、そのあと母も亡くしたのだろうと思っていた。
「お母さんは、どうして逃げたの?」
「ヴォルヴァ家は、とても怖いお家だからって」
ナギが不思議そうな顔をすると、ユメリアがつづけた。
「わたし、小さかったし、よくわからない。ただ、父様には好かれていなかったのは覚えてる」
ナギは妻子に暴力を振るう男を想像した。その男がこの世のどこかに生きているのだと思うと、腹の下あたりが冷たくなった。
「母様や姉様はやさしかったけれど、父様も城のひとたちも、わたしには冷たかった」
「城? あなた、貴族の生まれなの?」
「わからない。貴族ってわけじゃないと思う。でも、寒い国にある、お城みたいなところで暮らしてた」
ユメリアが両腕で自分を抱いた。
「ずっと忘れてた……。父様もお城の人たちも、怖い」
――この人は、貴族が妾か使用人に産ませた子なんだろうか。
「これからはずっと俺といるんです。大丈夫です」
彼女の家の事情がわからない以上、無責任な発言だとは思うが、それでも、せめていま、この場での心配を軽くしてやりたかった。
「でも、ユメリアにはお姉さんっていう身寄りがいるんだね」
「もう長い間、会っていないけど……。姉様は『虎や龍のいる国へ行って、ジャングルで冒険して商人になる』と言って、商人についていって、それっきり」
「虎や龍? 商人?」
「姉様はわたしと正反対で、とにかく活発なひとだったから」
それに、すごい美人、とユメリアが遠い目をして言った。
「あなただってうつくしいですよ」
口をはさむと、なぜだか対抗するような口調になった。ユメリアが「わたしとはぜんぜん違う」とほほ笑む。「きりっとした美人で、強くて、戦女神みたいなひと」。
「ユメリアとは正反対で、ジャングルでの冒険を求める、美人の姉」。想像もつかないが、家族がいることが、ナギにはうらやましくもあった。
「いつか会えるといいね」
「でも、どこで何してるんだろう……」
明日から家探しをしようと話し、寝台で早めに眠りについた夜。ふたりはこの宿の壁の薄さを知った。そして、この宿がどういう目的で使われているかも。両隣の部屋から女性のあえぎ声が聞こえつづけ、いったんやむと、また違う声がはじまる。その合間に、暴力的な男の声が挟まる。ユメリアはおびえて、ナギにしがみついた。
――この人を、ここで守っていけるだろうか。
街での初日は、そんな不安とともに幕を閉じた。
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