「ま、お元気ならいいんだ」

「貼り紙を見て……その……家を貸していただけないかと」

 ナギの手が、震えている。朝から街の西側に出かけ、めぼしい繁華街を回り、もう夕方。貼り紙を出していた貸し部屋の情報には、ぜんぶ当たってしまった。これが最後の一軒だった。

 断られる理由は、はっきりとわからない。ほんとうに、仕事が決まっていないからなのか。若すぎるからなのか。それとも――。


――俺の肌の色が理由だとしたら。どこにも住まわせてもらえないんじゃないか。もしそうなら、仕事だって……。


不安が不安を呼んでいた。


「はあ……」

 大家だという中年の女性は戸口に立ち、ナギと、後ろにいるユメリアを頭からつま先までをみやった。

「若いけど、仕事は何してるの」

「一昨日、田舎から出てきたばかりで。これから探します」

女性はふたたび、「はあ」と息を吐いた。

「それじゃダメだ。悪いけどほかをあたって」

「そうですか……」

ナギの顔はこわばっている。


「あのっ」


 ナギの後ろにいたユメリアが食い下がった。

「わたしたち、前に住んでいた領地の……貴族の方の紹介状を持っているんです」

「そんなもの、なんの役にも立たないよ。今、仕事がないんじゃあ」

「ゲ、ゲルバルド様という、しっかりした方なんです」

ユメリアがナギのポケットから、紹介状を出した。

「ゲルバルド……?」

閉じかけたドアが、止まった。

「ゲルバルド様って、北のムーアの?」

「そうです。ジョシュア・ゲルバルド様です」

ユメリアが広げて見せた紹介状を、女性が手に取った。

「ふん……」

紹介状に、黙って目を通す。

「ゲルバルド様から、餞別もいただいています。お仕事はこれからですけど……。しばらくはご迷惑はおかけしないかと」

紹介状をたたんで返しながら、大家は言った。

「部屋、見せるよ」

「えっ」

ナギが聞き返した。

「部屋貸してもいいって言ってんだよ。あのひとにはちょっと世話になったことがあるからね」

ふたりで顔を見合わせる。

「あ……ありがとうございます!」


 そこは、川沿いの三階建てのフラットだった。

「でさ、ゲルバルドさんは元気かい」

 外にある共同の洗い場と厠を案内したあと、大家が尋ねた。

「お元気でいらっしゃいます」

ユメリアが答えると、ややあって、女主人は「そうかい」と答えた。共同玄関を開き、階段をのぼる。

「ここだよ」

 建物の二階。木肌が荒れた扉を開くと、玄関すぐに小さな客間ともダイニングとも言えない空間があり、その奥に寝室がひと間。

「ゲルバルドさん、娘さんのことがあったろ」

 大家が寝室の鎧戸を開きながら言った。夕方の光が、部屋にあふれた。

「娘さん……?」

ユメリアが尋ねた。

「知らないのかい」

「わたしたち、それほど長くお世話になったわけではないので……」

「娘さんが……」

大家が言いよどんだ。逆光で、その丸い背中が影になっていた。窓の外では、川面が夕陽にきらめいている。

「ある日、森でむごたらしい姿で見つかった。近所に変態って噂の貴族がいてさ。もちろん、そいつが疑われてしょっぴかれたけど」

大家が、大きく息を吐いた。

「けっきょく無罪放免。ゲルバルドさんは抗議したけど、相手の親は中央にコネを持つ貴族で、かなり金があった」

「そんな……」

「娘さんには領民に身分違いの恋人がいてさ。その男も首を吊っちまったって話だ」

女主人は手のほこりをはらった。

「わたしもこっちへ出てきてから、人づてにそんな話を聞いてね。ま、お元気ならいいんだ」

「……」

ユメリアもナギも黙り込んだ。

「で、ここにするかい?」

「ええ、ぜひ」

ふたりは声を揃えた。


 荷物を取りに宿へ戻る。夕暮れどきの、工場労働者が帰路につく直前の時間帯。路上には、のんびりとした空気がただよっていた。

「ゲルバルドさん……」

ユメリアがぽつりと言った。

「娘さんが……」

そっとその手を、ナギの指に絡ませる。

「うん……」


――ふたりで、幸せになれ。

 

 ナギは、ゲルバルドのごつごつした掌の感触と、不器用な抱擁を思い出す。となりを歩くこの人も、きっと同じことを思い出している。そんな気がした。


 強く、強く手を握り合ったふたりの背中は、やがて、労働者や食事を買い求める人々の喧騒にまぎれていった。

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