ナギの一日

「いってらっしゃい」

 朝、ユメリアが頬に口づけをして、見送ってくれる。ナギの一日はそうして始まる。


 家探しをしているときにさんざん心配したのがうそのように、仕事はあっさりと決まった。家からいちばん近い、川沿いの毛織物工場だ。事務所から出てきた男に「求人を見て来ました」と伝えると、「明日から頼むよ。朝は八時から」といきなり言われたのだった。職歴さえも聞かれなかった。


――だまされているのか、だれかと間違えられてるのか……。


ナギは不安になり、そそくさと立ち去ろうとしている男を引きとめ、「いいんですか?」と尋ねた。

「俺、工場で働くのははじめてで……」

妙に額が広い男は、くいっと丸眼鏡をかけ直した。

「そんなこと、手を見りゃわかるよ。田舎から出てきたばっかりだってさ。農業でもやってたんだろ。綿工場に人をとられて、とにかく人手が足りないんだ」


 そういうわけで、ナギは毎朝、川沿いを歩き、バカでかいレンガ造りの工場へ向かった。そこで、一日中、織機を動かすための燃料となる石炭を継ぎ足したり、機織りに糸をセットしたりする。工場の労働者には子どもも多く、まさに老若男女が働いていた。機械が絶え間なく動く音に加え、彼らがかけあう声が高い天井に響く。それは、不思議なざわめきだった。


 そして、工場内も街も、空気が悪い。


――こんな空気じゃ、植物だってそうそう育たないんじゃないか。


 そんなことを思うものの、工場敷地の隣にある屋敷の庭では、最近、きちんと薔薇が咲いた。そこはここの経営者の屋敷らしい。ナギは朝、少し早く家を出て、その庭を一瞥してから仕事へ向かった。見るたび、土と植物が恋しくなる。明日はやめようと思うけれど、「あの百合が今日は咲いたか」「耕されていた区画には、何が植わるのだろう」と気になって、ついつい見に行ってしまう。


 工場の労働は単調で、いまひとつ何かを作っている実感にとぼしかった。ナギは手を動かしながら、いまの季節なら、薔薇の伸びすぎた芽を摘んで……と、師匠に習ったことを反芻した。正午近くになると、パンを盛った籠が置かれるので、それをひとりひとつ、ひったくるようにして取って食べた。終業のベルが鳴るころには、体が鉛のようだった。


 ナギは、たいてい、工場の近くにある「ヤコブズ・キッチン」に立ち寄って夕食を買った。揚げた芋と魚がセットになって、新聞紙にくるまれているそれが、「フィッシュ&チップス」と呼ばれていることを、ナギは街へ出てから知った。フライヤーのなかで油がはじける音と、むせかえるような熱気の向こう、店の親父が禿げ上がった額をふきふき、「まいど! べっぴんの奥さんにもよろしく」と二人前を渡してくれる。仕事の上りが早い土曜日、何度かユメリアと一緒に買いに来たことを覚えているのだろう。他人からユメリアを「奥さん」と言われるのは、くすぐったかった。


 包みを抱えて、家路を急ぐ。共同の台所はあるにはあったが、ユメリアはまだひとりで街を歩けず、食材の調達ができない。それに、家で調理をするとなると石炭代もけっこう高くつく。買ってすませたほうが安上がりなのだった。同じような家庭は多く、「ヤコブズ・キッチン」は繁盛していた。


 川面をわたる夜風に吹かれて歩くうち、見慣れた煉瓦造りのフラットが現れる。まだ鎧戸は閉まっておらず、ろうそくの灯りがぼんやりと部屋を照らしている、二階の窓辺。自分の住まいを目にするたび、ナギは誇らしい気持ちになった。


――俺の、俺たちの、家。


街で暮らしはじめてしばらくして、スラムにはもっと安い住まいがあることを知った。ひと間に二、三家族が住んでいる、なんてこともザラらしい。このフラットは狭いけれど、共用部分も含めて清潔で、静かだった。風通しも悪くない。そのぶん、家賃はナギの稼ぎで払えるギリギリ。それでも、ユメリアが安心して暮らせるなら惜しくないと思えた。


――家賃を稼いで、あの人とふたり分の食い扶持を稼いで。それと、ちょっとだけ給金を取り分けて貯めて――。


 ナギの心には、ちいさな決意があった。


「ナギさん!」


 二階の窓が開き、ユメリアが顔を出して手を振っている。


「おかえりなさい!」

「ただいま」


ナギも帽子を手に、振り返す。口元に笑みを浮かべ、ナギは共用の玄関へと駆け出した。

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