あの松、葉が枯れてます
ナギは通りの途中で立ち止まった。ここはリュートックの市街地の北、中流階級が住むテラスハウスが並ぶ一画を抜けた場所。視線の先、通りが尽きる場所には、堅牢な鋳鉄の門扉が見えている。貴族や金持ちの家と一線を画するのは、門扉の柵の太さ。そして、その前にいる、ガラの悪そうな男。スーツ姿だが、ワイシャツの襟元を大きくはだけさせ、毛むくじゃらの厚い胸板をのぞかせている。と、男がナギに気がついた。
視線を感じつつ、ナギは右腕に目を落とす。そこには黒いジャケットがたたんでかけられていた。リウ、とかいうあの男のもの。門番の男は、ナギににらみをきかせつづけている。
――行くしかないな。
ナギは意を決して、歩みを進めた。
「どうしよう……ジャケット、返さなくちゃ」
あの夜、ジャケットのことを思い出したユメリアは、うろたえていた。
「でも、リウさんってひと、どこにいるんだろう……」
ナギは椅子の背もたれにかけたままのジャケットに目をやった。リウのあのようすだと、返さなくても気にしないのではないか、とも思う。ただ、明らかにあの男はカタギではない。チンピラだった。住む世界が違う男の持ち物が、家にある。そのことは、ナギを落ち着かなくさせた。ふたりで安心して暮らせる聖域に、異物がある。そんな感覚。それに……。
――もし、あの男がこの家へ、ジャケットを取りに来たら……。
ユメリアがひとりのときに応対させるのも不安だった。
「どうにかして探しましょう。あの男、どこかの借金取りなんでしょう。聞き込みをしたら、見つけられるかもしれません」
「そういえば、宿のひとを脅すとき、『ボリスさんに迷惑かけるのか』って言ってた」
「ボリス……」
工場で、その名を聞いたことがあった。
――あの子の彼氏、この間、警官に「ポン引きしてんだろう」とか、因縁つけられたらしくてさ。
――あいつ、たしかにふらふらはしてるけどねえ。
――で、いとこがボリスさんとこに出入りしてるらしくてさ、泣きついたらなんとかしてくれたらしいよ。
――へえ……。ボリスさんがねえ……。どっちが警官かわかりゃしないね。
そうして日曜日の今日、街はずれのここまで、ナギはやってきた。工場の女たちいわく、ボリスは街の“顔役”。街に拠点はいくつかあるが、屋敷として知られているのはここだという。ユメリアは「わたしも行く」と言ったが、ナギは止めた。暴力の世界に彼女をふれさせたくなかった。
「おい、お前、さっきからウロウロしてよォ、何の用だ」
ナギが近づくと、門番がすごんだ。なるべく気にしないようにして、ナギは挨拶をする。
「こんにちは。リウさんってひとはいますか?」
「リウ?」
「これを……、リウさんからお借りしたものを、返しそびれてしまって」
ジャケットを見せる。
「リウから借りたァ? お前が?」
「ジョンってやつの連れ込み宿で、うちの妻がちょっと、トラブルになって」
「あー、あのクソ
男はなにか納得したようだった。
「ジャケット、リウさんに渡しといてもらえますか?」
「リウ、いま、いるんじゃねえかなあ」
男が「おい!」と声をかけると、どこからともなく、男が現れた。背がひどく低く、小さな顔に、目ばかりがぎょろぎょろと大きい。その目でナギを、じっと見上げた。
「リウがいたら、呼んできてくれねえか」
背の低い男がうなずき、門扉の向こうに見える、りっぱな屋敷のほうへ去る。
「ちょっと待ってな」
内心、ジャケットを預かって渡してくれるだけでいいのに、と思いつつ、ナギは「ありがとうございます」と礼を言って待った。門扉の向こうには、白いアプローチの左右に、青々とした芝生が広がっている。その左手なかほどにある木に、ナギは目をとめた。
――松だ。
それは、ナギがはじめて目にする品種だった。ふだんよく見かける、まっすぐ天空に背を伸ばす松とは違い、それほど背は高くない。太い幹から、やはりがっしりとした枝を、低く横にのばしている。おそらく樹齢によるものだろう、木肌のひび割れた風格に目を奪われる。
ただ――。ナギはすこし、眉をひそめる。針のような葉の何割かが、赤茶けている。本来、松は常緑のはずなのに。
「リウ、もう帰っちまったってよ」
野太い声で、我に返る。いつのまにか背の低い男が戻り、門扉の柵の向こうから、ナギをじっと見ていた。
「ジャケット、渡しといてやるよ」
「お願いします」
黒い上着を手渡しながら、ナギは思い切って言ってみた。
「あの、よけいなことかもしれないですけど……あの松」
ナギが指さす方向を、門番がけげんな顔でみやる。背の低い男は、ナギから目をそらさなかった。
「葉が枯れてます」
「それがどうしたァ」
ナギは早口でつづける。
「赤茶けてる葉を、すぐにぜんぶ取り除いたほうがいいです。それが終わったら、肥料をたっぷりあげてください。冬が来る前に。たぶん、病気で弱ってる」
「はぁ?」
「庭師がいるでしょうから、そのひとに伝えてください」
男が不信感丸出しの視線を送る。
「きっとあの松、ボリスさんも大切にしているものだと思うので……。失礼します」
それだけ伝え、ナギはきびすを返した。背後に視線を感じ、脇にじっとり汗をかく。見慣れた街中へと戻ると、ナギは大きく息を吐いた。
――やるべきことは、やった。
これでまた明日から、ユメリアと平穏に生きていける。安堵が胸を満たした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます