ナギとユメリア
ゲルバルドが去ったのを見はからって、少女が部屋に顔を出した。
「ゲルバルドさん、どうしたの?」
少年はゲルバルドが置いて行った新聞を、反射的に隠す。今の状況を、彼女に知られたくはなかった。これ以上、怖い思いをさせたくない。
――でも、知らないのは、それはそれで危ない……。
逡巡ののちに、少年は話した。スミスは死んだが、アレクは大けがはしたものの、生きている。自分はアレクやエリスを斬りつけ、スミスを殺し、「使用人」の少女をさらった犯人として追われている。少女の顔がどんどん曇り、最後はその場にへたりこんだ。
「そんな……。庭師さん、何も悪くないのに」
わたしのせいで、と顔を覆う。少年はしゃがんで、彼女と目線を合わせた。
「あなたのせいじゃない」
「わたし、警察で話すよ。お屋敷や地下室で何をされていたか。それに、使用人なんかじゃなかったって。そうしたらきっとわかってもらえる」
「もし、わかってもらえても。俺は無罪放免とはいかない。俺がつかまれば、あなたはひとりになる」
ゲルバルドにはああ言ったものの、彼女をひとり残す気にはなれない。彼女はアレクから逃れられるのか。ひとりで生きていけるのか。それに……。
「きっと俺たちの言うことは、とりあってもらえない」
スミスは「処分する」と事もなげに言って笑っていた。おそらく、女をいたぶるのは彼女がはじめてではない。賄賂、癒着、つながり。アレクやスミスにそんなものがあるのだとしたら、彼女が境遇を訴えたところで、聞いてはもらえないだろう。それでも――。
――負けられるか。
「わたし、庭師さんの人生をめちゃくちゃにしてしまった」
震える少女の肩に、手をそえる。
「めちゃくちゃにされたのは、あなたの人生だ」
閉じ込められて、玩具にされて、殺されそうになった。
「それに、これは俺が選んだことです」
「でも……」
「あなたの人生、これ以上めちゃくちゃにはさせません。絶対に」
言い切る少年の瞳を、涙にぬれた少女が見つめた。
「そのために、俺たち、新しいルールを決めなきゃいけません」
少年はゲルバルドのことばを伝えた。庭師とお嬢様、本名以外の呼び名で呼び合う――。
「庭師さんのお名前……えっと、たしか、チャウさん……だよね」
「俺、ほんとうの名前はちがってて……」
少年がすこし照れながら言った。
「俺、ほんとうはヤナギっていいます」
少年はズボンのポケットの奥から、くしゃくしゃになった紙を取り出した。ロマノフスカヤの屋敷から持ち出せた数少ない持ち物のひとつ。今にもやぶれそうな紙をそっと広げる。
「孤児院の前に捨てられたとき、この紙も一緒に、箱に入ってたらしくて」
ふたりの知らない文字が大きく書かれ、その上部に、この国の文字で、読み仮名がらしきものがふられている。
「ヤナギ……シノ、ノメ……?」
少女がたどたどしく読み上げた。読みづらいですよね、と少年は苦笑する。
「ヤナギ・シノノメ。でも、呼びにくいしなじまないから、孤児院ではチャウってことになって。こっちの名前は、きっとだれも覚えていないはずです」
「ヤ、ナ、ギ」
少女が一音ずつ区切って発音し、ちょっと考えて言った。
「じゃあ、ナギさん、でどうかな?」
少年がうなずくと、ナギさん、ナギさんと少女が繰り返す。
「それで……お嬢様は、アナベル、ですよね」
「わたしも、ほんとうの名前は別にあるの」
少女はちょっと迷ってから、その名を口にした。
「わたし、ユメリアっていうの。ユメリア・ヴォルヴァ」
「ユメリア……」
少女がうなずいた。
「母さまと父さまがつけてくれた名前。あのお屋敷に引き取られるとき、本当の名前は知られないほうがいいって、新しい名前をいただいたの」
「知られないほうがいい?」
少女も理由はわからない、と言う。
「先代のミハイル様は、わたしを娘がわりに育てたいとおっしゃっていたから、新しい名前をつけたかっただけかもしれない。あのお屋敷のひとたちは、この名前を知らないはず」
でも、と少女はつづけた。
「わたし、いつか、ユメリアって呼ばれたいって思ってた」
「これからはユメリア……さん?」
「ユメリアでいいよ」
「じゃあ、ユメリアで」
少年がその名前を呼ぶと、少女が照れくさそうに笑い、「はい、ナギさん」と答えた。
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