暗闘
四日後。
「これで勘弁してください」
オリバーと入った酒場で、ナギは金を差し出した。工場での稼ぎと、「いざというときのために」ととっておいた、ゲルバルドから持たされた金の残り、ボリスの庭仕事の報酬。ただ、銀貨一枚は、家に残してあった。
ナギには、算段があった。
――この金は、オリバーの想像以上の額のはずだ。「もうすこし待ってくれれば金をつくる」と言いくるめて、その間にユメリアだけでも北へ、ゲルバルドさんのもとへ、逃がそう。罪に問われているのは俺だけだ。ひとりなら、きっと逃げ切れる……。
ユメリアをひとりにしたくはないが、それに賭けるしかない。しかし……。
「ぜんぜん足りない」
オリバーが金を懐に入れながらいう。
「約束は金貨五枚だ」
「もうすこし待ってください。あてはあるんです」
「へえ。工場勤めのお前が、どうやって?」
「それは……ちょっと言えないけど、かならず」
「いつまでに?」
「……ひと月後には」
「待ってもいいけど」
ナギがほっとしたのもつかの間。
「そのかわり、嫁さん、抱かせろよ」
「なっ……そんなこと、させられるわけないだろ」
顔がひきつる。
「じゃあ、駐在所に駆け込むだけだ」
「来週なら。彼女を連れてきます」
「今から」
「あのひと、月のものなんです。せめて明後日まで待ってやってください」
「かまわない。今から家へ行こう」
――ダメだ……。
オリバーが酒場で金を払うのを見ながら、ナギは考える。オリバーを連れて帰り、事情を聞かされ、寝台でオリバーの言いなりになるユメリア。目を閉じて、からだをかたくして。「ナギさんが追われているの、わたしのせいだもの」とあきらめて。一回では終わらないだろう。この先、何回も。いずれは、ほかの男を客として……。
――俺はそんなことをさせるために、あのひとを連れ出したんじゃない。
スミスのもとから逃げるとき、草原で胸に誓った。この先、誰にも踏みにじらせはしないと。何より、ほかの男に、ましてやこんな男を、彼女に触れさせたくない。触れさせるわけにはいかない。
オリバーに肩を抱かれながら、家へと向かう。
――やるしかない。
心臓が痛いぐらいに打つ。嫌な汗が全身から吹き出す。どこで、どうやって。ナギの目が、路地にともった妖しい灯りに止まる。桃色のカンテラが、ちいさな店先に揺らめいていた。
――あそこなら、人目がない。
「オリバーさん」
ナギが立ち止まる。
「あのひと、その……そういう道具を使うのが好きで……。そこで買えるんです。せめて、気持ちよくしてやってください」
オリバーがにやっと笑った。
「見た目によらないね」
――下衆が。
その表情を見たとき、ナギの心が固まった。路地の入口にはガラクタやレンガが捨て置かれ、すえたにおいがした。ナギはポケットからナイフを取り出す。師匠から受け継ぎ、手入れを欠かしたことがない、このナイフ。
――師匠、ごめんなさい。
ナギは全体重をかけ、切っ先をオリバーの腹にめり込ませた。
「てめえ」
――失敗した……。
腹を、膝で思い切り蹴りつけられる。咳き込んで路上にうずくまったナギは、目の前の男の脇腹に、赤いしみが広がっているのを見た。まだ、希望はあるはずだ。しかし、手の中にナイフがない。蹴られながら、視線をめぐらせる。路地の先に、血がついたナイフが落ちている。そこまで這おうとしたとき、背中を踏みつけられた。ふたたび咳き込んでいるところを、あおむけにされる。
「このガキが」
オリバーがのしかかり、鬼のような形相で、ナギを殴る。
――これが、このひとの……こいつの本性なのか。
オリバーは、孤児院でナギを馬鹿にしなかった、数少ない人間だった。やさしくてめんどうみのいい、みんなの兄貴分。そんなふうに慕われていた。
「息を深く吸って、止めて、また吸って」
いつかユメリアに伝えた、心を落ち着ける方法。あれだって、オリバーが年下の子どもに、教えていたものだ。
「いい気になりやがって」
オリバーが、ナギの首を絞め上げる。
「あの世に行く前に教えてやるよ。あの金を盗んだのは俺だ」
濡れ衣を着せられた日。当時、オリバーはもう勤め口が決まって外で暮らしていたけれど、あの日は孤児院に遊びに来ていた。
「東洋の子鼠のくせに、ブラウン商会の丁稚だと!? そんなこと許されるかよ」
ブラウン商会といえば、故郷の街の
「つぶしてやったよ。お前の言うことなんて、誰も信じないからな」
いい気味だとオリバーが笑う。
「昔っから気に食わなかったよ。バカみたいに真面目で」
意識が遠くなる。
――俺は、俺は……。ただ、まともに生きたくて……。がんばって……。あの後、死にかけて……。
絶望、悲しみ。同時に、ユメリアの声がよみがえる。
――ナギさんがそんなことするわけないもの。
一片も疑わなかった。孤児院では、誰も信じてくれなかったのに。
――お前、どうなりたい。
見ず知らずの浮浪児に目をかけてくれた庭師の師匠。金を盗んだ疑いで孤児院を追い出されたと話しても、動じなかった。
――お前が倒れたら、誰があの娘を守るんだ。
ゲルバルドもそうだ。新聞記事に書いてあることより、ナギのことばを信じて、力になってくれた。
――そうだ……。俺が、俺がここでやられたら、あのひとを……誰が……。
ナギは残った力をふりしぼり、からだをひねった。振り落とされたオリバーが、脇腹を押さえ、顔をゆがめる。ナギは転がり、ナイフを手に取り、振り返った。
「てめえええ」
オリバーが、れんがを手にふりかぶっていた。そこからは、よく記憶がない。自分が刺したようにも、殴ろうとする勢いで、オリバーがナイフに倒れ込んできたようにも思える。気がつくとオリバーはナギに覆いかぶさり、動かなくなっていた。
「おい、何してる」
表通りのガス燈のあかりを背に受けて、路地の入り口に、誰かが立っている。
「リウ……」
ナギがかすれた声で、その名を呼んだ。
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