海へ行く2
「す、すごい」
「広い……」
ふたりは波打ち際で立ち尽くす。
目の前には、どんよりと雲がたちこめる冬の空の下、どこまでも続く水平線。
「波ってほんとに引いたり寄せたり……ずっと続いているんだね」
「不思議な音ですね」
「ずっと聞いていたくなる……」
真冬の海から吹き付ける風は、頬を切らんばかりに冷たい。それでもふたりは、その場から立ち去ろうという気にはならなかった。
***
フェスタから借りた古ぼけたトランクひとつにふたりぶんの荷物を詰め、リュートックの駅を出たのは、まだ暗いうちだった。
早朝にもかかわらず、三等車は混みあっていた。行商風の大荷物を持った老婆から農夫風の男、幼い子を連れた女まで、客はさまざまだ。ふたりは三等車のボックス席の窓際に腰を落ち着けた。
「汽車に乗るなんて、変な気分。なんだか緊張してきちゃった」
「大丈夫ですよ」
ナギは笑って彼女の手を握ったものの、自身も落ち着かない気持ちには変わりなかった。
汽笛を上げて、汽車が走り出す。見慣れたごみごみとした街並み、その向こうに見える市庁舎の時計塔や巨大な工場がみるみるうちに遠ざかっていく。
「汽車って、乗るとこんな感じなんだ……」
いつも外から見ているだけのものに乗っている。鉄の塊が高速で走っている。それがふたりには、なんとも不思議に感じられた。
汽車が揺れると、網棚に乗せた乗客の荷物がはねる。木材がむきだしの座席は座り心地がいいとはお世辞にもいえないが――。
「馬車より、ぜんぜん平気」
「あれはひどかった……とくに下り坂は」
ふたりはいつしか、リュートックへ出てくるまでの馬車旅を思い出していた。あのころ、ユメリアはまだ指のけがが治っておらず、何かにつかまることができたのは片手だけ。からだもいまよりもっと細かった。
「あなたが飛び出してしまうんじゃないかって。心配で心配で」
「ナギさん、必死におおいかぶさってくれた」
――あのときのことを、こんなふうに話せるようになるなんて。
車窓には、冬枯れの田園風景が広がっている。
「空ってこんなに広かったんだ」
かつてリュートックに出てきたときは、大きな工場に加え、フラットやらボロ家やらがぎっしりと建つ街の風景に目を奪われた。でも、いまは、ふたりとも田舎の風景に新鮮さを感じている。
――不思議なことばかりだ。
駅で買ったビスケットを食べることも忘れ、ふたりは窓にかじりついていた。
***
そうやってたどりついた海辺の街・ブリトンで、ふたりはトランクを宿に預ける時間ももどかしく、浜辺へやってきたのだった。
「海って独特のにおいがする」
ユメリアが深く潮風を吸い込んだのを、ナギも真似してみる。湿った空気は、磯のにおいとしか言いようのないものに満ちている。
「あなた、この海の向こうから来たのかな」
海鳥が鳴き、飛び交うようすを眺めながら、ナギがつぶやいた。
「こっちは東だから、ちがうよ。わたしはずーっとあっちのほうで生まれたの」
ユメリアが砂浜の果て、北側をさした。
「こっちには、きっと姉さまがいる国があって、そのもっと先に、ナギさんの……お父さまとお母さまの国があるんじゃないかな」
「俺は生まれも育ちもこっちですけどね」
「でも、なんだか不思議。ふたりとも遠いところに根っこがあって……。いま、こうやっていっしょに海を見てる」
ナギは水平線の彼方を見つめた。あの向こうに、自分の“根っこ”があるとも思えない。が、こうしてふたりでいることは、たしかに――。
隣に立つひとを見る。銀灰色の髪を潮風にそよがせ、遠くを見ている灰青色の瞳。
つないだ手をすこしだけ引いて、彼女を背中から抱きしめる。
「どうしたの?」
「……冷えるんじゃないかと思って……」
「へんなナギさん」
そう言いながら、ユメリアはナギの腕を握り、頬を寄せる。
ずいぶん長い間、ふたりは黙ってただ波の音を聞いていた。
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