海へ行く4
その夜。ふたりは宿の寝台の上、寄り添って波の音を聞いていた。
「波って、ずっと寄せたり引いたりしているんだね。昼も、夜も、わたしたちが眠っている間も」
一本だけ灯しておいたろうそくが、ユメリアの横顔をゆらめきながら照らしている。
――まるで波が打ち寄せて、部屋まで入ってきているような――。
ナギはそんなふうに感じた。
互いに横になったまま向き合い、ナギはユメリアの手を取った。指を絡ませて、また波の音に耳をすませる。
「ほんとはね。ほんとは、指がまっすぐだったらなって思うの」
夜の闇にまぎれてしまいそうなちいさな声で、ユメリアがつぶやいた。
「ときどき、だけど」
ゲルバルドのところで医者に診てもらったものの、結局、あの過酷な馬車旅がたたったのか、街へ出てきてからの処置が悪かったのか、ユメリアの左手の薬指は、わずかに曲がったままだ。
「俺に……もしお金があって。医者が治せると言ったら、治してあげたい、とは思います」
ほっそりとした薬指の形を確かめるかのように、ナギはそっとなでる。
「でも、この指を見るたび、あなたがどういう人間か、俺は思い出すから」
あのときのことは思い出したくはない。でも――。
「不甲斐なくて……申し訳なかったとも、思うんですけど」
愛おしい、とも思う。
ユメリアが首を振り、「そんなことない」とやわらかな声で言って、口づけをした。
「ナギさんのケガは、顔もひどかったから。傷が残らなくてよかった」
「鼻はちょっとだけ曲がってるって言われましたけどね」
「ぜんぜんわからない」
ユメリアがひとさし指で、そっとナギの鼻頭をなでた。そのまま、ナギの瞳を見つめて目を閉じて――。唇が重なる瞬間、ナギの心臓が跳ねる。
――さっきは、平気だったのに。
一緒に暮らしてだいぶたったのに、まだこんな瞬間が、ときどき、ある。
――やっぱり、不思議だ……。
潮騒に包まれながら、ふたりの体温が、重なっていく。
***
「楽しかった」
帰りの汽車で、ナギの胸に頭をもたせて、ユメリアが言った。
「ありがとう。連れてきてくれて」
返事のかわりに、ナギは彼女の手を握る。中指と薬指が、少しだけ曲がっているその手。
昨日は大雨だった。たった三日の滞在のうち、一日がつぶれてしまったことになる。すこし足を延ばして見に行こうかと話していた大きな庭園にも行けず、浜辺の植生のスケッチもできなかったけれど、それでもふたりは満足だった。宿の窓に叩きつける雨と荒れた海の音。それは、リュートックにも、ふたりの故郷にもないものだった。
一夜明ければ嘘のように晴れ、冬にしては珍しくのぞいた薄く青い空の下、汽車が動きはじめた。
「また、来ましょう」
ユメリアの規則正しい寝息を胸に感じながら、ナギは彼女の手を握ったまま、そう言った。
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