「あぁ、分かっている。ここのことを把握していて、それに素直に従っている自分が嫌になるな――」


 倉科は皮肉交じりに呟くと、もう一度だけ中嶋とアイコンタクトを交わして、認可証を取り出した。ここから先は選ばれた一握りの人間にしか出入りできない空間。中嶋達のように、ここで勤務している人間であっても、実に複雑な手続きを踏まねば入れない場所である。そこに認可証ひとつで出入りできるなど、まさしくほまれである。光栄すぎて、今すぐにでも辞退したいほどの誉れだ。


 認可証を認証機にかざすと、間抜けな電子音がして鉄格子が横にスライドする。中に足を踏み入れると、ご丁寧に鉄格子が閉まり、ロックされる音が辺りに響く。歩みを進め、また認可証を認証機に読み取らせて鉄格子をスライドさせる。前に進む度に、いちいち背後の鉄格子にロックがかかるのがストレスである。ここから彼を逃さないために講じているのであろうが、まるであちらの世界に向かう倉科を全力で締め出しているかのようにも感じられる。


 何枚もの鉄格子をくぐると、そのどん詰まりに厳重な鉄扉が現れた。――この先に彼がいる。九十九人殺しの殺人鬼が。


 倉科は鉄扉の脇にあるボックスへと、認可証を読ませる。すると、ぱかりとボックスが開いた。そこから茶封筒を取り出す。茶封筒には、これでもかと言わんばかりに【検閲済】の判子が押されており、厳重に封がなされている。事件の資料ひとつを持ち込むにも、実に面倒な手順を踏まねばならなず、ここに来るようになってから、おかげさまで倉科は市役所などで苛々しなくなった。まだお役所仕事のほうが手続きが少なくて済むからだ。


 茶封筒を片手に、ホルスターから拳銃を抜く。込められた銃弾は模擬弾でありながらも、万が一の時は倉科を守ってくれる重要な武器だ。引き金を引かないで済むことを祈るばかりである。


 大きく深呼吸をしてから認可証を認証機に読み取らせた。一際大きな電子音がして、ゆっくりと扉がスライドする。そこに体を滑り込ませると、倉科は真っ先に拳銃を構えた。


「飯の時間にしては早ぇと思ったんだ。警察の馬鹿が何の用だ? また事件が手に負えなくなって、俺に泣きつきに来たのかなぁ?」


 鉄扉の向こう側は広々としており、ちょうど中程から鉄格子で仕切られている。その鉄格子の向こう側には、簡易式のベッドと便器がひとつ。その簡易式のベッドに腰をかけていた男が、倉科の姿を見てニタリと笑みを浮かべた。


 空気が変わったと例えるべきか。ただでさえ淀んでいた地下の空気が、ぴりぴりと刺激を伴って倉科に襲いかかってくる。実際には空調が動いているし、決してそんなことはないのであろうが、そう思えてしまうほどに、彼の存在感は大きかった。


 鉄格子の向こう側に、自分とは生きている世界が違う人間がいる。三桁近い人間を殺しておきながら、のうのうと生きている化け物が潜んでいるのだ。倉科は拳銃を鉄格子の向こうへと銃口を向けた。こうして顔を合わせるだけで、丸腰では太刀打ちできないと思わせるのは、やはり殺人鬼の貫禄かんろくなのか。


 黒のタンクトップに、履き慣らしたダメージジーンズ。露出した両肩にはトライバルタトゥーが入っている。刑務所に収容されているわけではないためか、髪は伸ばし放題。黒髪が肩までかかっていた。その黒髪から覗くは、まるで獣の瞳だ。鉄格子越しとはいえ、その威圧感だけで倉科は命の危機を感じた。こんな損な役回り、さっさと誰かに投げてしまいたい。


「泣きつきに来たわけじゃない。司法取引に来たんだよ。お前の待遇が少し改善されるかもしれないんだ。ありがたく思えよ――」


 及び腰のままでは雰囲気に飲み込まれてしまう。倉科は目に見えない威圧感に対抗すべく、引き金にかけた指にやや力を込めた。


「ひゃはははっ。司法取引なんて、まだ当分日本にゃ浸透しない。死刑にするならさっさと死刑にしろよ」


 独特の笑い声を上げる彼に、倉科はつくづく自らの立場を呪った。何が悲しくて、こんな殺人鬼の相手をしなければならないのだ――。特殊勤務手当は目一杯貰っているものの、その他に特別手当のひとつでもつけて貰わねば割が合わない。


「ここは特殊なんだよ。俺から言わせりゃ治法外区域みたいなもんだ。お前みたいな殺人鬼はのうのうと生きてるわ、国民には全てが機密の訳の分からん施設だわでな。いまさら、司法取引がどうのこうのなんて言ったところで、それが通ると思うか?」


 倉科は検閲済みの茶封筒を、鉄格子の隙間から投げ入れた。司法取引と言っても、明確な取り決めはない。彼が興味さえ持ってくれれば、面倒な交換条件を提示する必要もない。とにかく、彼の反応を見るほうが先決であろう。しかし、拳銃だけは下ろさない。鉄格子の向こう側にいるとしても、拳銃だけは絶対に下ろさない。これは物理的な威嚇というよりも、倉科の精神安定剤のようなものだった。


「最初の事件は三ヶ月ほど前に起きた。でもって、今月に入って四人目の犠牲者が出ている。捜査本部を立ち上げて捜査にあたっているが、今のところ有力な手掛かりはなしだ」


 彼は面倒くさそうに立ち上がると、足枷を邪魔そうにしながら茶封筒を拾い上げ、それを片手に気だるげな表情でベッドの上へと戻った。


「被害者は全員未成年の女性――。決まって若い女が狙われている。被害者の友好関係などを洗ってはみたが、共通点はそれくらいで、全くの赤の他人同士だった。大量殺人をやらかした殺人鬼様だ。これくらいの事件、朝飯前だろう?」


 倉科の言葉を丸無視して、彼は茶封筒の中から資料を取り出すと、恐ろしいほどの速さで目を通す。ただペラペラと資料をめくっているだけなのでは――と、何度も疑ったこともあるが、これで彼の頭の中には事件の概要が流れ込んでくるようで、ただ一度目にしただけで、事件の全てを把握してしまう。馬鹿と天才は紙一重というが、彼の場合、狂人と天才は紙一重と例えるべきだろう。


「くくっ……くくくくくくっ。俺が知らない内にシャバも物騒になったなぁ」


「お前が言うな、お前が。むしろ、お前がいなくなって平和になったくらいだ」


 資料に目を通しながら肩を震わせる彼の姿に、倉科は大きな溜め息を漏らした。この光景を見ているだけでも、正直なところ気味が悪くて仕方がない。


「――女だ。一晩だけ好き放題できる女を用意しろ。そうすりゃ、この事件のこと……教えてやってもいいぜぇ」


 司法取引のことを批判しておきながら、しっかりと自分の要求を提示する彼に、倉科はヘドが出る思いだった。これまで多くの人間を殺害してきた殺人鬼に、誰が女などあてがうものか。


「駄目だ――。だってお前、散々犯した後に殺すんだろ? そんな要求は認められない」


 倉科が語気を強めると、彼は特に気を悪くするでもなく、実に不気味な笑みを浮かべる。


「別にいいだろうが……。たった一人の人間が犠牲になることで、これから増えるであろう犠牲者をなくすことができるんだ。安いもんじゃねぇか」


 この男の倫理観はずれている。いや、人間として根本的な部分が大いにずれているのだ。だからこそ、人を殺したって何とも思わないし、そもそも他人を人間として扱っていない。きっと、この世界で人間と呼べるのは自分だけであり、他の人間は道端に転がっている石に等しいのであろう。その石ころに感情があることも知らない。


「――とにかく、女は駄目だ。ただでさえ、ここに無関係の女を連れ込むだけでも面倒なんだよ。しかも、幾ら風呂屋の女だとしても、凶悪な殺人鬼と寝ようとする女なんぞいねぇよ」


 倉科がさらにきつく言い返すと、彼は面白くなさそうに資料を放り投げた。徹夜してまとめ上げた資料が鉄格子の向こう側で散らばる。


「なら、この程度の事件はパスだ。こんな、ちょっと考えれば分かるような事件、わざわざ俺が手をつける義務はねぇよ」


 自分の思い通りにならないと面白くない。まるで子供のような反応であるが、このような事態になることは予め想定済み。彼を相手にして、すんなりと交渉が進むとは思っていない。


「だったら、宝文堂のクリーム焼きプリンでどうだ? しかも、ダースごと買って来てやる。久方ぶりに口と手をクリームでべたべたにしながら甘いもんが食えるぞ」


 交渉決裂と言わんばかりの空気を放っていた彼が、ぴくりと肩を震わせた。どうやら、こちらの交渉条件に食いついたらしい。


 刑務所の食事もさることながら、この拘置所の飯もまずい。そして、なによりも糖分が少ないのは、どこの刑務所飯でも有名な話だ。受刑者の中には甘いものを【甘シャリ】と呼ぶ者がいるくらいである。刑務所や拘置所というものは、それほどまでに甘いものに飢える環境らしい。


「――クリームはプレーンとチョコがミックスされた奴だ。それ以外は認めねぇ」


 案の定、あっさりと交換条件に応じる姿勢を見せてくる彼。倉科は「交渉成立だな」と呟き、引き金から指を外した。甘味の力は恐ろしい。過去に多くの人間を殺した殺人鬼でさえ、従えてしまうのだから。


「ただ、少しばかり時間が必要だなぁ。こうも馬鹿みたいな事件だからよ。俺もそこまでレベルを合わせてやらないと考えがまとまらねぇよ」


 やけに上機嫌になった彼は、自分で資料を拾い集めると、それを眺めながら、こう呟いたのであった。


「まぁ、なんにせよ俺ならもっとスマートに殺るけどなぁ――」


 彼の名前は坂田仁さかたじん……九十九人殺しの殺人鬼だ。

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